第1話「神様、こうなったら頼りますからね」
空から、女神が降ってきた。
しかも私の頭の上に。
「きゃ────────っ!?」
その悲鳴は私のものではなかった。落ちてくる、本人のものだった。
「ふげっ!?」
令嬢にあるまじき声を上げて、私は神殿の割れた敷石に転がる。背中に、やわらかくて重い何かがのしかかった。息ができない。何が起きたのか、まるでわからない。
ついさっき、私はこの古ぼけた神殿の扉を、よいしょと押し開けたばかりだった。埃と黴のにおいに顔をしかめて、苔のはりついた敷石を踏んで、奥で傾いている女神像を見上げて――そこまでは覚えている。そのあと、頭上で誰かが絶叫した直後、いきなり屋根が抜けて落ちてきたのかと思った。
ちがう。屋根ではない。
「いっったぁ〜〜〜……。死ぬかと思った……」
背中の上で、間延びした声がぼやいた。
「ってあたし、神様だから死なないんだった。よかった〜」
……今、この声は、人さまの背中の上でずいぶんのんきなことを言わなかっただろうか。
重みがもぞもぞと動いて、ようやく退いてくれた。私は痛む腰を押さえながら、なんとか身を起こす。振り返って、そして息を呑んだ。
女の人が座りこんでいた。
腰まで届く髪が朝焼けみたいな金色をしている。崩れかけた神殿の薄暗がりの中で、その人のまわりだけ、ほのかに明るい。まとっているのは、見たこともない織りの薄衣。素足が埃だらけの敷石をまるで気にしていない。
きれい、と、理屈より先に思った。人間離れした、という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。
(……もしかして、女神様?)
半信半疑で見つめていると、その人は私に気づいて、ぱあっと顔を輝かせた。
「あ、あなたが受け止めてくれたんだ! ありがと〜、助かっちゃった」
ぺこっと軽く手を合わせて、にこにこ笑う。神々しい見た目に、近所のお姉さんみたいな気安さが乗っかっていて、頭がついていかない。
「あのね、あたし、全知全能の女神なの。すごいでしょ?」
「は、はあ」
「セレスティア・アウローラ・ヘリアーナ! ……って長いから、セレスでいいよ。よろしくね!」
女神様――セレスは、得意げに胸を張った。きらきらした金の髪がふわりと揺れる。確かに、見た目だけなら、文句のつけようがないほど神々しい。見た目だけなら。
「ねえ、それよりちょっと聞いていい?」
セレスが急に声をひそめた。神託でも授かるのかと、私は思わず居住まいを正す。
「そこのドアって、どうやったら開くの?」
「……は?」
「さっきから押しても引いてもびくともしなくて。あたしずっと閉じこめられてたの。これ、何かの呪い?」
セレスが指さしたのは、私がたった今、押して開けてきたばかりの扉だった。蝶番が錆びているだけの、ただの古い扉である。呪いでもなんでもない。押すか引くかの問題ですらない。さっき、現に開いている。
「ってあなた、閉じこめられてたんですか? さっき、思いっきり上から降ってきましたけど」
「そうなの! ドアが開かないから屋根の穴から出ようと思って、梁に登ってたの。そしたら急にあなたが入ってくるんだもん。びっくりして、足が滑って」
見上げれば、雨漏りの染みの真上に、空色がのぞく大穴があいている。なるほど。「空から降ってきた女神」の正体は、これか。全知全能は、屋根から落ちる。
全知全能とはいったい何だったのか。
胸の奥で芽を出したばかりの希望が、根を張る前にしおしおと萎れていく。やめてほしい。私の、なけなしの希望を返してほしい。
「あ、あの、セレス様。ひとつ伺いますけど……もしかして、おなかとか、空いてらっしゃいます?」
「! なんでわかったの!?」
セレスの目がきらきらと見開かれた。
「あなた、もしかしてあたしの同類? お腹すいてるの、いま全力で隠してたのに!」
隠せていなかった。証拠に、言い終わるなりセレスのおなかが、きゅるるるると盛大に鳴いた。神々しい音とは到底言いがたい。
「もう3日も何も食べてないんだよね〜。神様だってお腹はすくの。知ってた?」
「知りませんでした……」
私はその場にしゃがみこみたくなった。
――いや。落ち着け、私。落ち着いて、状況を整理するのだ。
話は4日前にさかのぼる。
私、リーゼロッテ・フォン・アーベラインは、社交界では札つきの嫌われ者だった。「氷の令嬢」だの「あの侯爵家の問題児」だの、陰では好き放題言われている。口が回りすぎるのと、愛想笑いが下手なのが祟った。そうしてとうとう実家にまで持て余され――「信仰でも学んでこい」と、この辺境ローエンの廃神殿の管理人に放りこまれた。要するに、体のいい厄介払いである。
馬車で4日。たどり着いたのは、参拝者どころか人っ子ひとりいない、雨漏りのする神殿だった。普通なら、ここで膝から崩れ落ちるところだ。
けれど私はめげなかった。なぜなら、ひとつだけ希望があったからだ。
神殿には神様がいる。
神様が実在することくらい、私だって知っている。光神さまの大神殿では、今日も神官が病を癒やし、日照りに雨を降らせていると聞く。神はこの国に確かに在るのだ。家からも見放され、社交界にも居場所がなく、財布は空っぽ。人生のどん底で、人がすがるものといえば、神頼みしかないではないか。神様に願って、この詰んだ人生を、まるごとひっくり返してもらう。我ながら名案だった。
問題は――この忘れられて久しい廃神殿の女神に、まだそんな力が残っているかどうか。そこだけは正直、賭けだった。
その算段を胸に、いざ神殿へ足を踏み入れた、まさにその瞬間。
神様のほうが空から、私の頭の上に落ちてきたわけである。
賭けには勝った。なのに――致命的に頼りなかった。
「ねえねえ、あなた、お名前は? あたしを助けてくれたお礼に、ひとつ願い事きいてあげよっか!」
目の前で、自称・全知全能の女神様が、得意げにそう言った。直後、おなかがまた切なげに鳴る。願いを叶える神様の威厳は、空腹の前に木っ端みじんだった。
「お嬢様ーっ! 荷ほどき、終わりましたよーっ!」
神殿の奥から、侍女のハンナが駆けてきた。私が辺境に飛ばされても、暇を出すと言われてなお付いてきた、物好きで肝の据わった子だ。その手には馬車に積んできたパンの包み。
ハンナは私の隣に立つセレスを見て、ぴたりと足を止めた。
そして、見る間に、その目に涙を盛り上げていく。
「……ほ、本物の……暁の、女神様……?」
包みを取り落とし、ハンナはその場にひざまずいた。震える手を組んで、祈るようにセレスを見上げている。さっきの私とは大ちがいの、混じりけのない信仰の眼差し。なぜハンナがそんな顔をするのか、このときの私はまだ知らなかった。
「わ、なになに、どうしたの? あ、それ食べ物? 食べていい?」
セレスの視線はハンナの涙ではなく、床に落ちたパンの包みに、まっすぐ突き刺さっていた。
厳かさの、欠片もない。
私は額に手を当てて天を仰いだ。雨漏りでできた染みだらけの天井が、私を見下ろしている。
頼りたい。心の底から、神様に頼りたい。
でもこの女神様は――どう見ても、私が世話を焼かないと、明日にも飢え死にしそうなのである。
それでも。背に腹は代えられない。私に残された希望は、もう、この空腹のポンコツ女神たった一柱なのだから。
私は腹をくくって、深々と頭を下げた。できるだけ、心を込めて。
「――神様。こうなったら、頼りますからね」
「うん! まかせて! ……で、ごはんは?」
まかせて、の3秒後にこれである。
こうして私の、ポンコツ女神との珍妙な日々が幕を開けた。
それが涙なしには終わらないことになるなんて、このときは、まだ想像もしていなかった。
次話:「これが、全知全能ですか」




