第13話「待っていた人が、いたんだ」
セレスが「呼ぶ声」の話をした、その翌日。私はハンナの様子がどこかそわそわしているのに気づいた。掃除の手を何度も止めては、自分の部屋のほうを気にしている。
「ハンナ? どうかしたの。さっきから、落ち着かないみたいだけど」
「あの……お嬢様。実は、お見せしたいものが、あるんです」
ハンナは意を決したように、自分の部屋から古びた木箱を抱えて戻ってきた。蓋には色あせた朝焼けの紋様が彫られている。暁の女神の印だ。長いあいだ大切にしまわれてきたのだろう。木箱の角は丸くすり減っていた。
「おばあちゃんの、形見なんです。ずっと開けるのが怖くて、しまいこんでいたんですけど……女神さまが本当に戻ってきてくださった今なら、見られる気がして」
箱の中には一冊の古い帳面と、何本もの短くなった蝋燭の燃え残りが入っていた。蝋燭はどれも根元まで使いきられている。
帳面を開くと、そこには几帳面な筆跡でびっしりと祈りの言葉が綴られていた。日付がある。何年も何十年も前から、毎日、欠かさず。「今日も女神さまが、お戻りになりますように」。同じ言葉が来る日も来る日も繰り返し書かれていた。雨の日も。風の日も。
「おばあちゃんだけじゃ、ないんです」
ハンナは帳面のもっと古い頁をそっとめくった。筆跡が変わる。もっと古い、もっとかすれた字に。インクの色もずいぶん褪せている。
「これは、ひいおばあちゃん。その前は、もっと前のご先祖さま。わたしの家は、ずっと、この帳面に祈りを書き継いできたんです。誰も拝まなくなっても。女神さまが忘れられても。たった一つの家だけで、灯を、絶やさないように」
何代にもわたって書き継がれた祈り。誰にも顧みられない神を、たった一つの家系が何百年も待ち続けてきた。その重みに私は言葉を失う。帳面の厚みはそのまま、待ち続けた時間の長さだった。
「この蝋燭はね」
ハンナは燃え残りの蝋燭をいとおしそうに手に取った。
「女神さまの祭壇に、毎晩ともしていたものです。おばあちゃんが言ってました。『火を絶やさなければ、女神さまは、道に迷っても、いつか帰ってこられる』って」
火を絶やさなければ、帰ってこられる。
その言葉に私ははっとした。セレスが言っていた。落ちてくるとき、なつかしい声が自分を呼んでいた、と。「戻ってきて」と。
まさか。
その声は――この家系が何百年も灯し続けた、祈りの灯だったのではないか。届くはずもないと思いながら、それでも絶やさずにいた小さな火。それが空のどこかをさまよう女神に届いていたのだとしたら。
「ハンナ」
私は思わずその手を握っていた。
「あなたたちの祈りが、女神さまを、呼んだのかもしれない。ずっと待っていた人がいたから、セレス様は、ここに帰ってこられたのよ」
ハンナの目が見開かれた。そして、みるみる涙でいっぱいになる。
「……待ってて、よかった」
声を震わせて、ハンナは帳面を胸に抱きしめた。
「おばあちゃん。ひいおばあちゃん。みんな。……待ってた人が、いたんだよ。ちゃんと、届いたんだよ」
その光景を、いつのまにかセレスが戸口から見ていた。普段のへらへらした顔ではなく、何かをこらえるような泣き笑いのような表情で。じっとその帳面を見つめている。
セレスはゆっくりとハンナに歩み寄ると、その古い帳面にそっと手を添えた。指先がわずかに震えていた。
「……ありがとう。あなたのおうちが、ずっと、あたしを待っててくれたんだね。あたし、ひとりぼっちじゃ、なかったんだ」
その瞬間、帳面の上にぽうっとあたたかな金色の光が灯った。何百年分の祈りに、ようやく女神が応えたかのように見えた。ページの一枚一枚が光を吸って、やわらかく輝いている。
待っていた人がいた。忘れられた神にも。忘れずにいてくれた誰かが。
その事実がこんなにも胸を打つなんて。打算で女神を拝み始めた私は、いつのまにかこの神殿の物語にすっかり巻きこまれていた。そして、もう抜け出したいとも思わなくなっていた。
次話:「崩れる音は、いつも静かで」




