第12話「女神にも、忘れたことがあるらしい」
よく晴れた昼下がり。参拝者の波が一段落して、神殿には穏やかな静けさが戻っていた。窓から差しこむ陽が舞う埃をきらきらと照らしている。午後のこの時間が、私は嫌いではなかった。慌ただしい朝が過ぎて、ほっと息をつける。
セレスは祭壇のそばの日だまりで、ぼんやりと外を眺めていた。膝を抱えて、いつものはしゃいだ様子もなく、ただ青い空を見上げている。その横顔がいつになく静かで、めずらしいこともあるものだと私は手を止めた。
「セレス様? どうかしたんですか。ごはんなら、まだ昼には早いですよ」
「あたし、そんなに食い意地張ってないよ……たぶん」
「たぶん、ですか」
軽口を返したのに、セレスは小さく笑っただけだった。いつもなら「失礼な!」と頬をふくらませるのに。やはり何かがおかしい。私はその隣に腰を下ろした。日だまりはぽかぽかとあたたかかった。
「……あのね、リーゼちゃん。あたし、思い出そうとしてるんだ」
「思い出す? 何を」
「自分のこと。あたしが、どうしてここに落ちてきたのか。その前は、どこで、何をしてたのか」
セレスは空に手を伸ばすようなしぐさをして、けれどすぐにその手を下ろした。届かないものに手を伸ばしたあとのような、寂しい仕草だった。
「全然、思い出せないの。気づいたらこの神殿の中にいて、お腹がぺこぺこで、ドアの開け方もわからなくて。それより前のことが、すっぽり抜け落ちてる」
全知全能を自称する女神が、自分のことだけは何も知らない。その横顔はいつものポンコツな明るさとはまるで違っていた。迷子の子どもみたいに心細げだった。広い場所にひとりだけ取り残されたような。
「昔は、たくさんの人に祈られて、すごく大きな力を持ってた気がするの。でも、その『気がする』だけで、中身が思い出せない。誰に祈られてたのか。何を守ってたのか。……大事なことを、忘れてる気がするんだ」
忘れたことがある。女神にも。
その事実が私の胸をなぜだか締めつけた。誰よりも長く生きて、誰よりも多くを見てきたはずの神様が、自分の歩いてきた道を思い出せずにいる。それはきっととても寂しいことだ。大切なアルバムの写真だけが、ごっそり抜け落ちているような。
「思い出せないと、困りますか」
「うーん……」
セレスはこてんと首をかしげて、それからにっこり笑った。いつもの、お日さまみたいな笑顔で。
「困らない! だって今、リーゼちゃんも、ハンナちゃんも、村のみんなもいるもん。昔のことは思い出せなくても、今が楽しいから、いっか!」
あっけらかんとそう言いきる。本当に調子のいい神様だ。けれどその明るさが、今は少しだけ痛かった。忘れたことを忘れたふりして笑うのも、この子なりの強がりなのかもしれない。本当は心の奥で、ずっと探しているくせに。
「……そうだ、リーゼちゃん。ひとつだけ、覚えてることがあるんだ」
「なんですか」
「落ちてくるとき、声が聞こえた気がするの。誰かが、あたしの名前を呼んでた。『戻ってきて』って。すごく、なつかしい声で」
名前を呼ぶ声。戻ってきて、と。
セレスはその声をたぐりよせるように目を閉じた。
「あったかくて、優しくて。聞いてるだけで、泣きたくなるような声。あたし、その声に引っ張られて、気づいたらここに落ちてた。……それだけは、はっきり覚えてるの」
それが誰の声なのか、セレスにもわからないという。けれどその声に引かれるように、自分はこの神殿へ落ちてきた。そんな気がする、と。
「変なの。名前も思い出せないのに、呼ばれたことだけ、覚えてるなんて」
セレスはまた空を見上げた。その瞳にほんの一瞬、遠い何かを懐かしむような切ない色がよぎる。きっとその声の主が、この子にとっていちばん大切な何かなのだ。
私はその横顔を見ながら、ふと思った。この女神には私の知らない、長い長い過去がある。そしてその過去のどこかに、彼女を呼んだ「誰か」がいる。
それがいったい誰なのか。……ふと、祭壇の奥で床を磨くハンナの、小さな鼻歌が聞こえた気がした。
次話:「待っていた人が、いたんだ」




