第10話「力が戻るほど、遠くなる」
祭りから数日。神殿はすっかり村の中心になっていた。
朝から人が訪れ、願いを告げ、お供えを置いていく。畑の相談、嫁いだ娘の安産祈願、なくした指輪の在りか。村人たちはどんな小さなことでも女神さまに聞いてほしくて足を運ぶ。セレスの力は目に見えて戻ってきていた。枯れた花を咲かせ、小さな傷を癒やし、なくし物のありかを言い当てる。もう私がご利益をでっち上げる必要もほとんどなくなっていた。むしろ本物の奇跡のほうがずっと多いくらいだ。
順調だった。何もかも私が望んだとおりに運んでいる。神殿は栄え、村は潤い、セレスの力も戻る。完璧な、はずだった。
なのにその夜、私はどうしても眠れなかった。胸の奥に小さな棘がずっと刺さっているみたいで。寝返りを何度も打って、結局、毛布をはねのけた。
司祭館の裏手の石段に出て、ひとり星を眺める。秋の夜気は冷たく、吐く息がうっすらと白い。村の灯はとうに消え、聞こえるのは虫の声ばかり。空にはこぼれそうなほどの星。
「リーゼちゃん、こんなとこにいた」
ぱたぱたと裸足の足音が近づいてくる。振り返ると、セレスが毛布を引きずって出てきた。私の隣にどすんと遠慮なく腰を下ろす。神様なのに相変わらず所作に品がない。けれどその肩から伝わる温もりが、冷えた夜にはありがたかった。
「眠れないの?」
「ええ、少し。セレス様こそ」
「あたしは、お腹がすいて目が覚めちゃった」
「さっき、夕飯をあんなに食べたのに?」
「神様は、燃費が悪いの!」
胸を張って言うことだろうか。くすくすと笑い合う。それから二人で、しばらく黙って星を見上げた。冷たい夜気の中、セレスの隣だけがほんのりあたたかい。
「……力、だいぶ戻ってきたよ」
ふいにセレスが言った。いつもよりずっと静かな声で。
「リーゼちゃんと、ハンナちゃんと、村のみんなのおかげ。あたし、こんなに早く力が戻るなんて思ってなかった。ほんとに、感謝してるんだ」
「……よかったですね」
よかった。そのはずの言葉が、なぜだかうまく声にならなかった。喉の奥に何かがつかえている。
「全部戻ったらさ」
「……天に、帰るんですよね」
「うん」
短い返事。それきりセレスは黙りこんだ。星明かりの下で見るその横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。いつものへらへらした笑みが消えると、この人はこんなにも静かできれいな顔をするのだ。
帰る。喜ぶべきことのはずだ。女神の力が戻れば私の願いも叶う。都への返り咲き。財産。私を追いやった連中を見返してやる日。それを目当てに私は信仰を集めてきたのだから。これは計画通り。何もかも順調なはず。
なのに。「帰る」のたったひとことが、こんなにも胸に冷たい。いつのまにか私の願いは、すっかり形を変えてしまっていた。
「あのね、リーゼちゃん。あたし、最近、思うんだ」
セレスが膝を抱えて、星を見上げたまま言った。
「帰るの、ちょっとだけ……」
その先を、私は聞きたいような聞きたくないような、不思議な心地で待った。けれど。
「……ううん。なんでもない! 帰ったら、リーゼちゃんの願い、ぜーんぶ叶えてあげるからね! 楽しみにしててよ!」
セレスはぱっと笑顔を作って明るく言った。けれどその「なんでもない」がやけに引っかかる。きっと今、この子も私と同じことを考えていた。そんな気がした。言葉にしたら本当になってしまいそうで、二人とも呑みこんだのだ。
「……星、きれいですね」
話を逸らしたくて、私は夜空を指さした。
「ねえセレス様。あの星の並び、何か名前があるんですか? 女神さまなら、ご存じでしょう」
「えっとね、あれは……うーんと……」
セレスは自信満々に空を見上げ、それからこてんと首をかしげた。
「……忘れた!」
「全知全能では?」
「星はね、数が多すぎるんだよ! いちいち覚えてられないの! 神様にも、得手不得手があるの!」
むきになるセレスに、私は思わず噴き出した。笑いながら、けれど胸の奥の棘はまだそこにあった。
このくだらない掛け合いも。隣の温もりも。へらへら笑うこの女神も。いつか全部いなくなる。力が戻れば戻るほど、その日は確実に近づいてくる。
打算で始めたはずだった。利用するつもりだった。なのにいつのまにか私は、この時間を――手放したくないと思い始めている。
力が戻るほど、あなたは遠くなる。その当たり前のことに、私はようやく気づいてしまった。気づかなければよかったのに。気づいてしまったらもう、この胸の痛みから逃げられない。
「リーゼちゃん? なんだか、怖い顔してるよ」
「……なんでもありません。さ、夜更かしはお肌に毒です。戻りますよ」
立ち上がって、毛布にくるまったままのセレスに手を差し出す。きょとんとして、それからにっこり笑って、セレスは私の手を取った。あたたかい手だった。神様の手とは思えないほど人間くさくて、あたたかい手。
この手を、いつか放さなければならない。
まだずっと先のことだと思いたかった。せめて、もう少しだけ。この温もりの隣に、いさせてほしかった。
次話:「疑っていた人が、袖をまくる」




