FILE_07: 境界の遭遇
深夜の静かなリビングで、一華は一人、冷めきった湯呑みを見つめていた。
大学の帰り道に起きた、あの不気味なハッキング。ナンパ男たちを退散させた公安の警告、トラックを避けた信号の明滅、カフェでの誘導──手元のディスプレイ端末を執拗に侵食した「完璧すぎる影の干渉」の残像が、一華の脳裏を離れない。
誰かが私を監視し、コントロールしている。その理不尽な恐怖と闘う彼女の脳裏に、ふと、ここ数日の創太の姿がよぎった。
半年の引きこもりから突如として復帰し、毎朝穏やかな顔で家を出ていく弟。
だが、リビングで視線が合うと、創太は何か楽しい秘密を共有しているかのような、どこか無邪気な笑みを一瞬だけ浮かべるのだ。
あの子のあの全能感に満ちた瞳は、一体何なのだろう。
──まさか、そんなはずはない。 一華は自身の突飛な思考を打ち消すように、小さく首を振った。
翌日の夕暮れ時。大学のキャンパス。 一華は講義を終え、一人で駅へと続く並木道を歩いていた。歩きながらも、彼女の明晰な頭脳は手元の端末のシステムログを深く潜って解析し始めている。
生身の天才である彼女のタイピングと解析速度は並の人間を隆駕していたが、残された接続の痕跡はあまりにも巧妙で、まるで意志を持った影のようにすり抜けていく。
「誰が、何のために私を……」
「──失礼。少々、お時間をよろしいでしょうか」
静まり返った並木道に、極めて低く、氷のように冷徹でありながらも、美しく通る大人の声が響いた。 一華が足を止めると、行く手を阻むように、漆黒のコートを纏った一人の青年が立っていた。
冷ややかな色気を放つ鋭い眼光。
青年は一華に向かって、静かに一礼した。
「突然お声をかけてしまい申し訳ありません。私は蓮と申します。……お尋ねしたいのですが、あなたがロック解除された違法人工知能を使用している一華さん、ですね?」
一華はすっと眉をひそめ、青年を冷ややかに見据えた。
「……何か御用ですか? 人違いなら他を当たってください」
蓮は一華の耳元をじっと凝視した。端末など何一つない綺麗な生身の耳を確認したが、蓮の耳の奥から激しく機械音が漏れ出してきた。
『警告。対象の脳波、規格外の超高速演算を確認。ロック解除個体、あるいは──極めて異常な生体脳と断定』
蓮は、ポケットに手を入れたまま、一華へと視線を向けた。
「否定は無意味です。イヤーAIを一切使用せずに、すべての試験で全国トップ。そのような芸当が生身の人間に不可能なことは、あらゆるデータが証明しています。あなたがどんなに巧妙に隠そうとも、その『異常な計算速度』が何よりの証拠です。……あなたですね、違法プログラムを利用している者は」
「不躾な人。私がいつ、どんな機械に頼ったというの?……私の邪魔をしないでください」
一華の手が、抱えた資料を強く握りしめる。
蓮の耳の奥のカウンターAI『アンチ・バグ』が、低く駆動音を立てた。
一華が「この青年をどう回避し、どう制圧するか」の最適解を組み立てたその瞬間を、確実に感知したのだ。
「無駄ですよ。あなたがどんな可能性を計算しようと、私の前ではすべて『不可能』になります」
蓮が一歩、足を踏み出す。




