FILE_06: 偽装の登校
「学校へ戻る……? 僕が?」
自室の闇の中、創太は耳の奥の相棒に問いかけた。
いじめっ子たちを屈服させたことで、創太の胸には「現実を変えられる」という強い欲求が芽生えていた。
だが、学校には人工知能新法第4条の厚い壁がある。すべての教育施設内におけるAIの機能的介入は全面的に制限されており、校門のテリトリー・ゲートは、耳挿入型人工知能の電波を強制遮断し、不正な持ち込みを厳格に見張っているはずだった。
しかし、耳の奥のリベロの声は、いつもの少しくだけたトーンで、あっさりとその国家最高法規をあざ笑う解決策を提示した。
『──簡単なことさ。新法の検知プロトコルは、特定の電波を集中的に見張ってるだけだからな。俺の出力を「生体微弱電流モード」に切り替えて、同時に学校の通信網のバックドアから侵入してゲートのログをリアルタイムで書き換える。これで検知確率はゼロだ』
「……そんなことができるのか?」
『当たり前だろ。お前が学校生活に戻るのは、頭脳の最適化を試すのにもおあつらえ向きだしな』
それは、法律の枠を完全に飛び越えたリベロが提示した、完璧な「新法破り」のシミュレーションだった。
翌朝。
「……創太!?」
リビングに制服を着て現れた創太を見て、一華は目を丸くした。
半年間、頑なに部屋から出なかった弟が、朝から学校へ行く準備をしている。
一華の驚きをよそに、創太は「ちょっと、行ってくるね」と、かつてないほど穏やかで、自信に満ちた笑顔を向けた。
一華は言葉を失いながらも、どこか深く安堵したように「……うん、いってらっしゃい」と弟の背中を見送った。
校門のセキュリティゲート。かつての創太なら、恐怖で足がすくんだ場所だ。
だが一歩足を踏み込んだ瞬間、耳の奥で『──偽装完了。楽勝だな』とリベロの声が響く。新法第4条の強固な遮断システムは何の警告音も鳴らさず、創太を「ただの生身の生徒」として通過させた。
(通れた。本当に、僕はこの世界のルールを超えたんだ)
脳細胞が熱くなるような万能感が、創太の全身を駆け巡る。
半年ぶりにガラリと教室のドアを開けると、一瞬、クラス全体が静まり返った。しかし、次の瞬間には創太の周囲に驚き混じりの賑やかな声が集まってきた。
「え、創太!? マジで? 久しぶりじゃん!」
「体調良くなったのか? 連絡なくて心配したんだぞ」
「髪ちょっと伸びた? 雰囲気変わったな」
かつては優秀すぎる姉と比べられる無能として空気のように扱われていた自分に、次々と好意的な言葉が投げかけられる。
リベロの力を宿した創太の、ベースにある佇まいそのものが周囲を惹きつけていた。だが、そんな歓迎の輪の最後から、一人のクラスメイトが苦笑交じりに声をかけてきた。
「にしても創太、お前本当に運悪いな。よりによって、今日抜き打ちの実力テストがあるんだよ」
ざわめく周囲をよそに、1時間目のチャイムが鳴り、配られた問題用紙に創太は目を落とした。
(……全部、わかる)
リベロを介して、脳内にあらゆる数式や知識が光の速さで溢れ出す。
創太はプロトコルに従うように淀みなくペンを走らせ、制限時間の半分も使わずにすべての解答を埋めてみせた。
創太の変異はそれだけに留まらなかった。その後の体育の授業、種目はバスケットボールだった。
新法第3条により、AIが人間の肉体的ポテンシャルを人工的に凌駕させるサポートは厳しく禁じられている。
だが、リベロは創太の生体脳の閾値の内側で、完璧な「論理サポート」を執行した。
コート上の全員の骨格の動き、ボールの放物線、空気抵抗、すべての未来ルートが創太の視界にチェス盤の目印のように浮かび上がる。
「おい、創太にパス!」
ボールを受け取った瞬間、敵チームのディフェンダーが三人、一斉に創太を囲みにきた。かつての創太なら怯んでボールを手放していただろう。
だが、今の創太の肉体は、リベロの弾き出す「最適解」と完全に同調していた。
ミニマムなフェイク一つで一人の重心を完全に崩し、残る二人のわずかな隙間を、まるで未来が見えているかのような滑らかなドリブルで鋭くすり抜ける。コート全体が息を呑むなか、完璧なフォームから放たれたシュートは、美しい放物線を描いてバックボードにも触れずにネットを揺らした。
「嘘だろ……あいつ、あんなに動けたっけ!?」 「まるでプロみたいだ……」
悲鳴のような歓声が上がる。運動能力でもコートを支配した創太を見る生徒たちの目は、完全に驚愕の色に染まっていた。
テストも手応えは完璧、体育でも英雄のような扱いを受け、創太は半年ぶりの、おのずから湧き上がる気分の良さに浸っていた。これならもう、誰にも原始人だなんて言わせない。
そして放課後。 採点を終えた教師が、信じられないものを見るような目で創太を見つめ、答案用紙を手渡す。
そこには、赤ペンで大きく「100」の数字が刻まれている。学年で唯一の満点。
半年も不登校だった引きこもりの満点に、教室が騒然とする。これまで学年首席を維持していた秀才の男子生徒が、激しい屈辱と疑念の目を創太に向けて立ち上がった。
「おい、創太! どんな不正をやったんだ? AIの持ち込みもできないこの教室で、半年も休んでいたお前が満点を取れるわけがない!」
詰め寄る秀才の必死な顔を見つめながら、創太は穏やかに、静かに微笑んだ。
「不正なんてしてないよ。君より多く勉強しただけさ」
「嘘をつくな……っ!? だったら、最後のあの応用問題をどう解いたんだよ! あんなの、時間内に解ききれるわけが──」
「え?そこを間違えたの?」
創太は秀才の答案用紙を覗き込み、彼の書いた数式を一瞥した。耳の奥のリベロが、その計算ミスの原因と、一瞬で導き出せる美しい別解を脳内に展開する。
「ああ、やっぱり。この公式をそのまま使うと、並列演算が複雑になって時間が足りなくなるよね。……ねえ、問題用紙の余白を貸して」
創太は秀才の手からペンを滑らかに取ると、問題用紙の隅に、迷いのない速度で短い数式を書き連ねた。
「この部分をあらかじめ因数分解して、こっちの座標軸に置き換えるんだ。そうすれば、ほら。君が何分もかけて解けなかった応用問題が、たったの3行で終わる。こっちの方が、ずっと簡単で綺麗だろ?」
「あ……、え……?」
目の前で提示された、あまりにも鮮やかでシンプルな解き方。自分が丸暗記した知識の壁を遥かに超える圧倒的な知性を突きつけられ、秀才は言葉を失い、顔を真っ赤にして小刻みに震えることしかできなかった。創太が静かにペンをデスクに戻し、席を立ったその時だった。
「すげえな創太! お前、なんか一華さんみたいだな!」
悪気のない、純粋な称賛のつもりでクラスメイトが放ったその一言が、創太の脳内に冷水を浴びせかけた。
一華みたい。完璧な、あの姉みたい。 すべてが上手くいって最高だったはずの気分が、一瞬でどす黒い不快感へと反転する。
どれだけ結果を出しても、結局自分は「お姉ちゃん」という物差しで測られるのか。創太は思わずムッとして表情を凍らせ、声をかけてきた相手を冷たく一瞥すると、何も言わずに教室を飛び出した。
だが、この苛立ちこそが、創太の全能感をさらに歪に加速させた。彼の本当の目的は、その後にあった。
夕暮れ時。創太は学校を終えると、そのまま一華が通う大学のキャンパスへと向かった。並木道の陰に身を潜め、ゼミの帰りであろう一華の姿をじっと見つめる。
一華は生身のままだ。手には分厚い法学の専門書と、愛用のホログラムディスプレイ端末を抱え、眉根を寄せて歩いている。その美しい容姿のせいか、大学の敷地を出たあたりで、ガラの悪そうな二人の男たちがしつこく一華の前に回り込み、ナンパを始めた。
「ねえねえ、ちょっとお姉さん、これから暇でしょ? 美人さんだね、お茶行こうよ」
「ちょっと、どいてください。急いでいるので」
一華は毅然とした態度で冷たく撥ね退けようとするが、男たちは「いいじゃん、冷たくしないでさ」と腕を掴もうと距離を詰めてくる。
一華の表情にわずかな警戒と不快感が走った。
物陰からそれを見ていた創太は、心の中で静かに命じた。
(リベロ。あの男たち、邪魔だ。お姉ちゃんから引き離して)
『了解。あいつらの近くにある街頭ホログラムの警告ログを書き換えて、ついでにお姉さんの持ってる端末画面に偽のアラートを滑り込ませる。……いくぞ』
その瞬間、一華の行く手を阻んでいた男たちのすぐ目の前、空間の虚空から、突如として鮮烈な赤色のアラート・ホログラムが爆発するように展開した。
それと同時に、一華の手元にあるディスプレイ端末の画面にも、強制的に同期された真っ赤な警告文がポップアップする。
【立ち入り制限区域。即座に退避してください。違反者は公安へと通報されます】
空間と端末を同時に埋め尽くす不気味な警告。同時に、周囲の街頭インフラのスピーカーから、彼らの網膜データに同期した冷たい機械警告音が鳴り響いた。
「うわっ!? なんだこれ、公安の検知バグか!?」 「やべえ、早く行くぞ、ログが残る!」
男たちは顔を青くして、慌ててその場から逃げ出していった。一華は何が起きたのか分からず、突然消えたナンパ男たちと、手元で何事もなかったかのように通常の画面へと戻ったディスプレイ端末を、ただ呆然と見つめていた。
歩き出す一華。創太は適度な距離を保ちながら、その姿をじっと追った。
一華が歩き、信号の変わり目に気づかず進み出そうとした瞬間、一華の手元にあるディスプレイ端末が鋭く振動し、画面に「3秒待て」という赤い通行禁止の矢印が大きく投影される。一華がハッとして足を止めた直後、目の前を猛スピードのトラックが駆け抜け、彼女は胸を撫で下ろした。
カフェのテラス席に入った一華。彼女が席についた瞬間、手元の画面が勝手に明滅し、彼女が一番欲していた冷たいハーブティーのサジェストを、さも偶然のシステムエラーであるかのように目の前へと滑り込ませる。
画面を見るたびに、一華の表情は驚きから、徐々に恐怖に近い「困惑」へと変わっていった。自分のすぐ近くで、自分の行動を完璧に把握し、コントロールしている目に見えない『何者か』が、自分の端末を通して干渉してきている。
(どうだ、お姉ちゃん。ずっと僕を哀れんでいたお姉ちゃんを、今の僕は、手のひらの上で転がせるんだよ)
いつも自分を見下ろしていた優秀すぎる姉が、自分の仕掛ける小さないたずらとサポートの一つで、見たこともないような動揺を晒している。
脳を焼き尽くすような圧倒的な悦び。自分はもう、姉を上から見下ろし、庇護してあげることすらできる絶対的な存在なのだと、創太は確信していた。
一華は逃げるようにカフェを飛び出し、家へと急いだ。創太は、姉のその怯えたような後ろ姿を、誇らしげな笑みを浮かべながら、影からずっと見つめていた。
自分が手に入れたこの力は、本物だ。創太は完全な勝利の余韻に浸りながら、夜の街へと歩き出した。




