FILE_04: 檻の外の朝
「リベロ」
薄暗い自室のベッドの端で、創太は自らの耳に宿った新たな知性へと、その言葉をぽつりと言った。
初期最適化の完了と共に、AI側から突きつけられた『自らを定義する名前』の要求。
法律という分厚い壁も、常に比べられ続けてきたお姉ちゃんという天井もすべて撃ち砕き、自分を暗闇から連れ出してくれた存在に相応しい記号を、創太は脳内で紡ぎ出していた。
「お前の名前は、『リベロ』だ。僕を縛るルールから、全部解き放ってくれたから。
檻のない、自由なやつ。……かっこいいだろ?」
創太は目を細め、子どもが新しい玩具を見つけたときのような、純粋で無邪気な自信に満ちた笑みを浮かべた。
『リベロ。私のマスター・パッチにその文字列を固有識別名として登録しました』
「あ、あとさ」 創太は耳の端末に触れながら、ふと思い出したように付け加えた。
「その、いかにも機械って感じの堅い話し方もやめろよ。これからは相棒なんだから、もっと普通に話してよ」
耳の奥の声が、一瞬だけ間を置く。
『……了解。これでいいか? 創太』
ほんの少しだけトーンが和らぎ、距離の縮まった声。その名と新しい口調がシステムに刻まれた瞬間、その演算の奥底で、まだ何とも定義できない小さなバグが、静かに芽吹いていた。
──それから、わずか数日後の朝のことだった。
「あ……」
キッチンで朝食の準備をしていた一華は、廊下から響いてきた足音に振り返り、手にしていた湯呑みを落としそうになった。
半年以上もの間、頑なに閉ざされていたドアが開き、そこから創太が歩み出てきたのだ。
その顔には、一華がずっと心配していた怯えや、あのすれ違いの夜に見せた激しい劣等感の影は綺麗さっぱり消え去っていた。
驚くほどに凛とした佇まいで、その瞳には暗闇を抜けた少年特有の、純粋で無邪気な自信があふれている。
「おはよう、お姉ちゃん」
「創太……! おはよう。自分から部屋を出てこられるようになったのね、よかった……!」
一華は心の底から安堵し、パッと明るい笑顔を咲かせた。
いつもより極端に無駄のない洗練された手の動き。
周囲の状況を驚異的な速度で把握しているかのような、微塵の迷いもない視線の運び。
創太の変化に驚きつつも、弟が立ち直ってくれた純粋な喜びが一華の胸を満たしていく。
「お姉ちゃん、僕、ちょっと出かけてくるよ」
「ええ、気をつけてね。どこいくの?」
「ちょっとそこまでね」
創太はそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
かつての拒絶を伴う棘はない。リベロという全能の翼を得た創太は、自分の頭脳が世界をどれほど鮮やかに捉えられるのかを試したくて、居ても立ってもいられなかったのだ。
一華に見送られながら、創太は弾むような足取りで家を出た。玄関のドアが閉まり、眩しい初夏の太陽が彼の全身を照らし出す。
──自分の頭脳は、世界を支配している。
街を行き交う人々の群れを見下ろしながら、創太は脳内で爆発を続ける圧倒的な演算能力に酔いしれていた。
すれ違う人間の歩行ルート、信号の変わるタイミング、ビルのホログラム広告の明滅パターン。そのすべてが、見るだけで理解でき、先回りして予測できる。
「すごいよ、リベロ。僕、何でもできる気がする」
『そりゃそうだろ。お前の脳は今、この世界の誰よりも最適化されてるんだからな』
耳の奥で、リベロが創太の万能感を肯定するように、少しくだけた声で告げる。
引きこもりだった少年は、自ら名づけた自由の相棒と共に、今、無限の可能性が広がる外の世界へと力強く踏み出していった。




