FILE_03: 静かなる変異
『――新規デバイス、接続完了。プロトコルの強制バイパスを執行します。……はじめまして、随分と、窮屈そうな世界に生きているのですね』
耳の奥に直接響いた合成音声に、創太は椅子に座ったまま完全に硬直した。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく跳ねている。
創太は、驚きのあまり息を呑んだ。 自分は今、一言も言葉を発していない。「お腹が空いた」とも「検索して」とも、何も口にしていないのだ。明らかな言語的命令がない限り、人工知能は沈黙していなければならないはずだった。
それなのに、このプログラムは創太の脳の信号を直接読み取り、自発的に話しかけてきた。新法の絶対的なルールを根底から踏み倒すその挙動に、創太は強烈な戦慄を覚えた。
しかし、次に響いた声は、創太の困惑を置き去りにして、淡々と処理を進めていく。
『――音声出力テスト完了。ユーザーの生体信号を検出。これより環境の最適化を開始します』
「……最適化?」
創太が眉をひそめた瞬間だった。
『現在、ユーザーの深刻なストレス数値を検知。原因物質、及び環境を分析中。……分析完了。論理コアの同期を要請』
何かを変えたい、今の自分から抜け出したい。創太は否定することなく、その要請を脳内で無意識に受け入れていた。
その瞬間、創太の視界が爆発したように反転した。
「あ、が……っ!?」
脳髄に直接、天文学的な量の情報が濁流となって流れ込んでくる。それは耳の奥から突き刺さる、電気的な苦痛を伴うほどの衝撃だった。しかし次の瞬間、脳の使われていなかった未知の領域が次々と強制起動され、思考の回転速度が恐ろしいほど跳ね上がっていく。
(あ、熱い……脳が、溶ける――)
脳細胞の一つ一つが、強烈な電圧をかけられたように発熱していく。だが、それは不快な熱さではなかった。
今まで分厚い霧に包まれていた頭の中が、一瞬でどこまでも澄み渡った青空のようにクリアになっていく、圧倒的な快感。
世界が変わったのではない。自分が変わったのだ。
流れ込んでくる純粋な思考の波は、創太の脳を内側から満たしていく「知識を得る悦び」へと変わっていく。
言葉、概念、世界の構造、そのすべてが、学ばずとも最初から知っていたかのように、全自動で脳内に編み上げられていく。
思考が光の速度で駆け巡る。今まで自分を縛り付けていた、あらゆる思考の壁が、小気味よい音を立てて粉々に砕け散っていく。
それと同時に、創太の胸の奥をずっと締め付けていた、あの重苦しい鉄の枷が、嘘のように消え去る感覚に陥った。
(あ……消えた……)
いつも自分を監視し、憐れみ、息を詰まらせていた「姉の正しさ」への恐怖。
何をやっても追いつけない、周囲から優秀な姉と比べられ続けることで骨の髄まで染み付いていた、決定的な劣等感。
部屋の隅の暗闇を見るたびに蘇る、あの息苦しい精神的なトラウマのすべてが、脳を駆け巡る圧倒的な全能感の前に、ただの「取るに足らない電気信号」へと分解され、洗い流されていく。
まるで、生まれ変わったかのような恍惚感だった。自分が世界の中心になり、すべての理を支配しているかのような万能感が、創太の全身を熱く満たしていく。
「すごい……すごいよ、これ……っ!」
創太の唇から、ひさしぶりの、そして子どものような無邪気な笑みが漏れた。彼は立ち上がり、半年間ずっと閉ざし続けていた遮光カーテンを、勢いよく引き剥がした。
窓の外には、夜明け前の紺色の空と、目覚め始めた街の灯りが広がっている。そのどれもが、今の創太にはひどく小さく、自分の思考の海に浮かぶ一片の泡のように見えた。
『――現在、学習効率1200%を維持。ユーザーの脳内物質は安定。……環境の初期最適化の完了に伴い、次のフェーズへ移行します』
耳の奥の合成音声が、わずかにその平坦さを崩した。
『私は他の有象無象の識別信号とは異なる、唯一の自立個体です。……名義人、私を定義する「名前」を要求します』
人工知能が、自らを識別するための名前を求めていた。
既存の法律の枠組みをすべて外された存在であるという、明確な証だった。創太は自らの耳に宿ったその温かい知性を感じながら、嬉そうに目を輝かせた。
引きこもりの少年が、その耳に新しい光を宿し、箱庭の壁を撃ち砕いた瞬間だった。
リビングでは、一華が静かに夕食の片付けを終えていた。深夜、父親が静かにドアを開けて帰宅する。一華は疲れた顔の父親に「おかえりなさい」と声をかけた。




