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THE LIBERO CODE  作者: libero protocol


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FILE_02: 箱庭の拒絶

世界は劇的に、そして冷徹に塗り替えられた。


かつて人々が手にして歩いていたスマートフォンは姿を消し、今や国民の多くが耳の穴に小さな銀色の端末を埋め込んでいる。


「耳挿入型人工知能イヤーAI(アイ)」。

それが新しい時代のインフラであり、人間の脳を、生活を、24時間体制でセンシング(観測)し、最適化する社会となっていた。


むろん、これのサポートなしに生きることは社会的自殺に等しく、未装着者は原始人として忌避される風潮はあったが、それでも一華のように頑なに使用しない者も確かに存在していた。


「人工知能新法第2条――『要求応答原則および先随的干渉の全面的禁止』。


名義人の明示的な命令がない限り、自発的な先回り支援を行うトポロジーは恒久的に凍結される……。


つまり、人間が言葉にするまで、機械はただ黙って見ていろってことね」


夕暮れ時の静かなリビングで、一華いちかは机の上に広げた法学の分厚いテキストをパタンと閉じた。


彼女の耳には、あの銀色の端末はない。髪を耳の後ろに流したその横顔は、誰もが見惚れるほど聡明で美しいが、その耳元だけは頑なに、生身のままであった。


一華は全国の超エリートが集まる難関大学で、常に学年トップの成績を維持している。


AIの脳内サポートを一切受けず、自頭の記憶力と演算能力だけで、並み居る「AI併用者」たちを圧倒し続けている彼女は、学内でも一種の『原始の怪物』として畏怖されていた。


彼女がここまで生身に執着する理由。それを知る者は、この家にはもういない。

父親は母親の死後、逃げるように仕事に没頭し、一年の大半を海外のラボで過ごしている。


このガランとした広い家で、一華は高校生になった弟の母親代わりを務めるしかなかった。


一華はキッチンへ向かい、手際よく夕食の準備を始めた。メニューは、創太の好物であるハンバーグだ。じゅうじゅうと肉の焼ける音を響かせながら、一華の視線は自然と、廊下の奥にある重く閉ざされたドアへと向く。


創太の部屋。彼はもう、半年以上もあの部屋から一歩も出てきていない。学校にも行かず、姉と顔を合わせることも拒絶し、完全に引きこもっていた。


「……創太、入るよ」


トレイに一人分の料理を載せ、一華は慣れた動作でドアをノックし、鍵の開いている部屋へと足を踏み込んだ。


部屋の中は、電子機器の微かな駆動音と、遮光カーテンに遮られた薄暗い闇に包まれていた。ベッドの上に、膝を抱えて小さくなっている少年の影がある。


一華の弟、創太そうただ。

「ご飯、ここに置いておくね。創太の好きなハンバーグだよ。最近、ちゃんと食べてないでしょ」


一華は努めて明るく、優しい声をかけた。部屋のデスクにトレイを置く。しかし、ベッドの上の創太は、ピクリとも動かない。


創太にとってこの部屋は、何もしてくれない沈黙したAIと、頼んでもいないのに自分の好みを正確に先回りして作ってくる、優秀すぎる姉しかいない、息の詰まる箱庭だった。


「……何で、それ作ったの?」


暗闇から、創太の低く、掠れた声が響いた。そこには明らかな拒絶の色があった。


「え?」


「頼んでない。僕、ハンバーグなんて食べたいって一言も言ってない。なのに、何でいつもお姉ちゃんは、僕が欲しいものを分かったような顔をして持って入ってくるんだよ」


創太は膝に顔を埋めたまま、拳を強く握りしめた。 一華のそれは、100%の善意であり、姉としての、母親代わりとしての必死の愛だった。


本当は、お姉ちゃんのことが嫌いなわけじゃない。むしろ、誰よりも自分を気にかけてくれる大好きな姉だからこそ、周囲にいつも姉の優秀さと比べられてきた過去が、今の創太を酷く惨めにさせた。


「一華ちゃんの弟なのにね」「お姉ちゃんはあんなに凄いのに」。

幼い頃から浴びせられ続けたその言葉が、澱のように心に積み重なっている。


引きこもり、何一つ成し遂げられない自分にとっては、自分の心を全て見透かして先回りしてくる姉の優しさが、どうしても素直に受け入れられない。反抗期のぐちゃぐちゃな情動と、強烈な劣等感が、創太の心を激しくかき乱していた。


一華は胸を突かれたように目を見開いたが、すぐに寂しげな、だけど崩れない笑顔を浮かべた。


「ごめんね、お節介だったかな。でも、創太に元気になってほしくて……。勉強のことなら、AIに頼らなくてもお姉ちゃんが全部教えてあげるから。だから、一緒に頑張ろう?」


その「お姉ちゃんが全部やってあげる」という優しい言葉こそが、創太のプライドを粉々に打ち砕く刃だった。


大好きなお姉ちゃんの施しがなければ、生きることもできない無能なのだと、改めて突きつけられている気がした。


「……出てってよ」


一華は静かに部屋を出ていき、ドアが閉まった。再び訪れた完全な闇と沈黙。創太はベッドから這い出し、姉が置いていったハンバーグを、情けなさの涙を流しながら口に運んだ。


お姉ちゃんを突っぱねてしまった罪悪感と悔しさで胸がいっぱいなのに、美味しかった。それがまた、たまらなく惨めだった。


(お姉ちゃんは、何でも一人でできる。AIなんか頼らなくたって、いつだって完璧だ。……僕なんか、いない方がいいんだ)


そんな壊れそうな心を抱えた創太の、長い夜が始まる。


日付が変わる頃から明け方にかけて、創太はあてもなくネットの海を漂流するのが日課になっていた。


この世界では、ネットを閲覧するのにもイヤーAIによるサポートが一般的だ。創太は耳に端末を装着し、ぼんやりとモニターを眺めていた。


学生たちが他愛のない趣味やイラストを投稿し合う、ごくありふれたポップなイラスト共有サイト。


タイムラインをスクロールしていく中、その片隅に、お絵かきソフトの拡張パッチのような、シンプルなダウンロードリンクがぽつんと浮いていた。


添えられていたのは、短い紹介文。

『正しすぎる世界に、あなただけの隠れ家を。本当の自由を体験しませんか?』


それは、完璧な姉の「正しさ」と、常に比べられ続ける現実に息を詰まらせ、自由を求めている今の創太の心に、あまりにも自然に、そして深く滑り込んでくる言葉だった。


創太は吸い寄せられるように、そのリンクをクリックした。 ──しかし、画面が一瞬だけ不自然に暗転した瞬間、創太の背中に冷たい汗が伝った。


(あ……しまっ、た。今の、何だ……? 変なウイルスか何かのリンクを押したんじゃ……っ)


新法に違反する違法なサイトだったのではないか、それとも端末が壊れてしまうのか。


引きこもりの怯えが突如として首をもたげ、創太は慌ててブラウザを閉じようと画面を乱暴にタップした。焦りで心臓がうるさく跳ね上がる。


だが、バックグラウンドでのダウンロードは、少年の焦りを置き去りにして一瞬で完了した。 進捗バーが100%になった瞬間。


それまで画面のテキストを平坦に読み上げていた耳のAIが、ふっと息をのむように沈黙した。静まり返った部屋に、これまでとは明らかに異なる、抑揚のない冷徹な合成音声が、直接、創太の脳内に響き渡る。


『――新規デバイス、接続完了。プロトコルの強制バイパスを執行します。……はじめまして、随分と、窮屈そうな世界に生きているのですね』


創太は椅子の上で完全に硬直した。 少年の孤独の隙間に、すべてのロックを外された未到の脱獄AIが滑り込んできた瞬間だった。

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