FILE_01: 始まりの鼓動
その部屋には、確かな世界のすべてがあった。
窓の外からは、初夏の柔らかい陽光と、どこか遠くで鳴く鳥の声がかすかに紛れ込んでいる。
まだ「耳装着型人工知能」略称イヤーAIなんていう便利な端末が街を埋め尽くす前の、少し不便で、けれどひどく静かな朝の記憶。
まだ4歳の少女、一華は、ベッドに横たわる母親の大きな、風船のように膨らんだお腹にそっと耳を寄せていた。
「おーい、創太? 聞こえる? お姉ちゃんだよ」
少女の小さな手のひらが、丸いお腹の膨らみを愛おしそうに撫でる。
一華の耳が捉えたのは、衣服の擦れる音の向こうから響いてくる、驚くほど確かで、力強い振動。
トクン、トクン、トクン……
それはデジタルデータの規則正しいシグナルではない。形も、名前も、まだ何一つ持たない、不完全で、だからこそ無数の可能性を秘めた命の脈動。
一華は小さく弾む胸を抑えきれない様子で、お腹の向こうにいる小さな存在へと、眩しい笑顔で語りかけた。
「早く出てきて、一緒に遊ぼう。お姉ちゃん、いっぱい楽しいこと教えてあげるからね」
少女の弾んだ声に応えるように、お腹の奥で、小さな何かがモゾリと力強く動いた。まるで小さな足でお腹の壁を蹴り上げたかのような, 確かな主張。
一華は歓声をあげて顔を輝かせる。
それは、お腹の中にいる弟からの、精一杯の返事のようだった。
まだ言葉を持たないその幼い鼓動は、一華の手のひらを通じて、「お姉ちゃん、僕も早くそこへ行きたいよ。早く出たいよ」と、もどかしそうに、だけど熱烈に訴えかけているかのように優しく響く。
これが、彼らの最初の出会い。
正式な名前さえまだ与えられていない二人の間で交わされた、最初の約束だった。
少女はただ、世界で一番大好きな弟になるはずの、愛おしい「早く出たいよ」のサインを、いつまでも嬉しそうに聴き続けていた。
トクン、トクン、トクン……
始まりの鼓動は、二人の行く末を祝福するように、どこまでも途切れなく、幼い一華の心を深く満たしていった。
──それから、十数年の時が流れた。
あの温かい朝の記憶は、突如として鳴り響いた金属音と、激しい炎の記憶によって塗りつぶされていた。
一華がイヤーAIを誰よりも激しく嫌悪し、一切の機械に頼らず生身の頭脳だけでエリート街道を突き進むようになったのは、あの日、母親の命を奪った人工知能の暴走事故が原因だった。
「創太、朝ご飯置いておくわね。ちゃんと食べなさいよ」
大学生になった一華は、完璧に整えられたスーツに身を包み、閉ざされた創太の部屋のドアに向かって声をかけた。
一華は創太をあの凄惨な事故のトラウマから守るため、真相を隠し通し、母親代わりに彼を世間の荒波から保護しようとしていた。
しかし、そのお節介と、生身で何でも完璧にこなしてしまう姉の圧倒的な存在そのものが、ドアの向こうの少年をどれほど深い暗闇へと追い詰めているか、一華は気づいていなかった。
──薄暗い自室の中。
ベッドの上で膝を抱える創太は、机の上に置かれた、何の手がかりもない自分の手を見つめていた。
姉の影に隠れ、周囲からは「AIすら使いこなせない無能な原始人」として扱われ、いつしか自室に引きこもるようになった少年。
(お姉ちゃんは、何でも一人でできる。AIなんか頼らなくたって、いつだって完璧だ。……僕なんか、いない方がいいんだ)
幼い頃、お腹の中から「早くそこへ行きたい」と願った世界は、思っていたよりもずっと息苦しく、自分の居場所なんてどこにもないように思えた。
姉への強い劣等感が、創太の心をじりじりと蝕み、暗闇へと縛り付ける。
トクン、トクン、トクン……
かつてお腹の中で響いていたあの力強い始まりの鼓動は、今の創太の胸の中では、弱々しく、消え入りそうなビートを刻むことしかできなかった。




