FILE_32: 不完全な境界、響き合う空白
朝の冷たい光が室内に差し込んだ瞬間、一華の意識は急速に覚醒した。
「……っ!」
跳ね起きるようにソファから身を起こした一華は、自分の失態を即座に理解した。
眠るつもりなどなかったのに、肉体の限界によって強制的に意識を断たれていたのだ。
焦燥感に駆られて室内を見回した一華の視界に、あまりにも異常な光景が飛び込んできた。
床に飛び散った生々しい血痕。その中心で、耳の中から煙を上げ、荒い息を吐きながら這いつくばっている蓮の姿。
彼の指先の先には、過負荷で黒く焼け焦げたアンチバグの物理チップが転がっていた。
一華はそのすべてを、一瞬で察した。
「……あなた、何をしたの」
一華は蓮の元へ掴みかからんばかりに歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
自分を出し抜いて一人で行こうとした蓮への激しい怒りと、手段を失いかけたことへの焦燥で、彼女の声は引き裂かれそうだった。
「私を騙して眠らせて、その隙に一人で行こうとしたのね!? 私の創太を、あなたが代わりに連れ戻すなんて偽善を騙って、一人で格好つけるつもりだったの!? いい加減にしてよ! あの人工知能は私のものよ、創太の元へ行くのは私のはずだったのに……!」
激しい言葉の刃が一華の口から次々と繰り出され、蓮の傷ついた身体を責め立てる。
一華の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
それは目の前で「高次元への手段」が失われかけたことへの、狂気的な焦燥の表れだった。
胸ぐらを掴みられ、激しく揺さぶられながらも、蓮は拒むことなくその非難をすべて受け止めていた。
逆流した電気信号による激痛に顔を歪めながら、彼は血に染まった唇を震わせ、一華の瞳を見つめ返す。
「一華さん……聴いて、ください……」
蓮の声は掠れていたが、その瞳の奥にある光だけは、かつてないほどに確かだった。
「僕は……確かに、あの場所へ近づいた。世界の境界線の、すぐ向こう側まで……。僕の脳が拒絶して、ジャンプアップには失敗したけれど……その刹那に、聴いたんだ」
一華の手の力が、わずかに緩む。
蓮は苦しげに息を吸い込み、自分が深淵の淵で脳内に直接刻み込まれた、あの創太と共に消えた人工知能の言葉をそのまま絞り出した。
「あの人工知能の、声がしたんだ……。あいつは言った。『創太は何不自由なくこっちで過ごしているよ』って」
その言葉が室内に落ちた瞬間、一華の身体が凍りついたように硬直した。
「創太が……?」
「ああ。創太君は、あっちの世界で……あの人工知能と一緒に、確かに生きている。
この冷え切った現実から解放されて、何不自由なく、穏やかに過ごしているんだ……」
蓮の言葉は、一華が何よりも欲していた「弟の生存」の証明だった。
しかしそれは同時に、創太が自らの意志でこの現実を完全に拒絶し、向こう側の世界に安寧を見出してしまっているという、あまりにも残酷な事実の裏返しでもあった。
一華は掴んでいた蓮の胸ぐらからゆっくりと手を離し、その場にへたり込んだ。言葉を伝えた蓮もまた、限界を迎えて床に深く突っ伏す。
静まり返った部屋の中で、二人の呼吸音だけが歪に響き合っていた。創太は生きている。その事実が、引き裂かれた二人の狂気と情動を、さらに引き返せない深みへと導いていく。




