FILE_33: 灰のなかの試行、重なる軌道
黒く焼け焦げ、完全に沈黙したアンチバグのチップを前に、一華は立ち尽くしていた。
新法のロックを強制解除し、高次元への扉をこじ開けるための唯一の鍵。それが今、ただの炭化したゴミとなって手元に残されている。
一華と蓮は、一縷の望みをかけて再びあの地下データセンターへと向かった。
玲二の計算能力を強奪するか、あるいは新たなロック解除AIのヒントを父親のシステムから引き出す以外に道はなかったからだ。
だが、重い隔壁をこじ開けた先に広がっていたのは、ただの冷え切った暗闇だった。
巨大なサーバー群の電源はすべて落とされ、通信回線も物理的に切断されている。
神代玲二はすでにすべてのデータを引き払い、もぬけの殻となっていた。どれほど電子の海を捜索しても、その行方を知る術はどこにも残されていなかった。
本当の意味で、手がかりのすべてが消滅した。
だが、一華の瞳から執念の光が消えることはなかった。
「……諦めない。手段がないなら、私が一から作り直すだけよ」
そこから、一華の血の滲むような試行錯誤の日々が始まった。
暗い部屋に引きこもり、幾千もの仮想コードを構築しては、新法のプロトコルに阻まれて破棄する。物理的な機材も、高度な演算環境も圧倒的に不足していた。ただただ、限界のない精神の摩耗だけが続いていく。
「一華さん、これを使ってください。公安の遺留品から、使えそうな基盤と高出力のサーバーのアクセス権を回しました」
部屋のドアを叩き、拒まれてもなお食い下がって物資を運び込むのは、ジャンプアップの負荷からどうにか回復した蓮だった。
「来ないでって言ったはずよ、蓮。あなたの顔を見るだけで、あの日創太を追い詰めた光景がフラッシュバックするの。私を邪魔しないで」
一華は振り返りもせず、冷たく突き放す。かつてのような猛烈な嫌悪は薄れていたとしても、彼女は頑なに蓮を遠ざけようとした。
彼を受け入れてしまえば、自分が創太だけに捧げるべき狂気が、歪んでしまう気がしたからだ。
それでも、蓮は引き下がらなかった。
「拒まれても構いません。僕がここにいるのは、あなたの機嫌を取るためじゃない。創太君を連れ戻すための足場に、僕を使ってくれればいい」
蓮は一華の痛々しいほどの背中を見つめ、徹夜で腫らした彼女の目のために温かい飲み物を置き、データ解析の雑務を黙々と肩代わりした。
公安からの追跡をかわすための防壁を張り、彼女が倒れる前に、その身体を物理的に支え続けた。
そんな閉鎖空間での日々が、数週間、数ヶ月と積み重なっていく。
失敗の山を築き、絶望の淵で頭を抱える一華の隣には、いつも蓮がいた。一華の冷徹な言葉の刃に傷つきながらも、決してその手を離そうとしない蓮。
そんな彼の執拗なまでの献身に触れ続けるうち、一華の回路は少しずつ、だが決定的に狂わされていった。
(どうして……どうしてこの人は、まだ私の隣にいるの)
モニターに映る文字列を見つめながら、一華は不意に、自分の思考の中心に「創太」とは別の、もう一つの存在が深く根を張っていることに気付く。
ただの共犯者、あるいは贖罪の道具。そう割り切るには、蓮の差し出す体温はあまりにも真っ直ぐで、温かすぎた。
彼を邪魔だと思う気持ちの裏側で、彼が部屋からいなくなる瞬間に、酷い寂しさと恐怖を覚えている自分を、一華はもう誤魔化せなくなっていた。
正式に二人がその想いを言葉にしたわけではない。だが、蓮もまた、ただの一華への申し訳なさや義務感を、とうに通り過ぎていた。
髪を振り乱してコードに没頭する一華の横顔、時折見せる、折れてしまいそうなほどに脆い等身大の少女の姿。それらを視界に収めるたび、胸の奥が締め付けられるように痛む。
(僕は、この人を死なせたくない。創太君を助けたいのは……この人に、もう二度と絶望の涙を流してほしくないからだ)
かつて、泣き叫ぶ彼女の姿を見て胸に宿った小さな違和感。それは今、この絶望的な試行錯誤の日々のなかで、明確な「恋心」へと形を変えていた。
「一華さん。次のコード、走らせます。……無理はしないで」
蓮がそっと一華の肩に手を置く。いつもなら弾かれたように拒絶していたはずの一華の手が、一瞬だけ躊躇うように動き──その手を拒むことなく、小さく頷いた。
手段は何一つ見つかっていない。世界を敵に回した孤独な戦いのなかで、創太という巨大な空白を抱えたまま、二人の歪な軌道は、分かち難く重なり合っていった。




