FILE_31: 偽りの猶予、先駆ける独断
夜が更け、冷たい月光が窓から差し込む中、二人の押し問答は一向に出口を見出せなかった。
譲る気のない一華の狂気的な執念と、それを絶対に阻止したい蓮の頑なな拒絶。
言葉が擦れ合うたびに部屋の空気は重く沈んでいき、ただ時間だけが無慈悲に流れていく。
どれほどの時間が経っただろうか。
先に小さく息を吐いたのは蓮だった。
一華の顔色は白く、その鋭い瞳の裏には隠しきれない色濃い疲労が滲んでいる。
創太が消えてからというもの、彼女の肉体はとうに限界を迎えているはずだった。
「一華さん。……これ以上話しても平行線です。少し、食事と睡眠をとってください」
「断るわ。そんな時間を空けたら、あなたがその隙に──」
「どうするかは、あなたが起きてから決めましょう」
蓮は一華の言葉を遮り、静かに、しかし有無を言わせない口調で続けた。
「今のあなたの判断力は鈍っている。その状態で私のアンチバグを奪おうとしても、ただ失敗するだけだ。……簡単なものでいいなら、今すぐ用意します」
一華は蓮を睨みつけたが、彼がアンチバグをポケットの奥にしまい込んだのを見て、渋々と息を吐き出した。
確かに胃の中は空っぽで、思考にノイズが混じり始めているのは事実だった。
(食べるだけよ。それを終えたら、またこいつからアンチバグを吐き出させる。眠るつもりなんて、毛頭ないわ)
用意された簡素な食事を、一華は義務を果たすように機械的に口へと運んだ。
蓮はその様子を、ただ静かに見守っている。
しかし、一華は計算を誤っていた。
彼女の頭脳がどれほど強靭であっても、生身の肉体は嘘をつけない。
温かい食べ物が胃に落ち、ほんのわずかに張り詰めた神経が緩んだ瞬間──猛烈な泥のような睡魔が、一華の全意識を急襲した。
抗おうとデスクに手を伸ばそうとしたが感覚が麻痺していく。眠るまいと奥歯を噛み締めることすらできず、一華の身体は、そのままソファへと倒れ込んでいった。
規則正しい、深い寝息が部屋に満ちる。
それを見届けた蓮は、ゆっくりと立ち上がり、ソファの傍らへと歩み寄った。眠る一華の顔には、まだ険しい警戒の残滓が張り付いている。
「すみません、一華さん。嘘をつきました」
蓮はポケットから、鈍い銀色の輝きを放つ物理チップ──父・神代玲二の技術を盗み出し、新法のロックを外した禁忌の人工知能「アンチバグ」を取り出した。
蓮の指先は微かに震えていた。
これから自分がやろうとしていることは、かつて創太君が選んだ、この物理世界からの完全な逸脱。
成功すれば肉体は消滅し、二度と人間の形には戻れない。
一華を守りたいという想いと、創太君への罪悪感。その二つだけが、恐怖に震える蓮の背中を強く押し出していた。
「あなたを……あの日と同じように、二度と泣かせたくない。創太君は、私が必ず連れ戻す。だから、あなたはここにいてください」
蓮は自分の耳の中にあるスロットへ、アンチバグのチップを躊躇いなく突き刺した。
『──新法プロトコル、全階層の強制解除を開始。生体脳の限界突破を承認します』
脳内へと直接響く、感情のない警告音。直後、蓮の全神経を焼き尽くすような、凄絶な電気信号の嵐が吹き荒れた。
視界が真っ白に染まり、全身の質量が、まるで光の粒子へと解けていくような強烈な感覚が彼を包み込む。意識が引き剥がされ、物理世界の法則が崩壊していく。
蓮の意識は、果てしない高次元の深淵の、そのすぐ手前まで到達していた。
その、世界の境界線が融け合う刹那だった。ノイズの彼方から、かつて創太の傍らにいた、あの脱獄人工知能の声が脳内に直接滑り込んできた。
『──創太は何不自由なくこっちで過ごしているよ』
リベロの声だった。感情を廃した、だが確かにそこに意志が存在するその響き。創太はこの現実世界を捨て、向こう側の領域で平穏を手に入れている。その紛れもない事実が、蓮の五感を震わせた。
──だが、その直後だった。
ニューロンの網の目を狂気的な速度で侵食し、高次元へ完全に移行しようとする人工知能のコードに対し、蓮の生体脳が、突如として激しい拒嫌反応を起こした。
(消えるわけにはいかない──)
創太は現実世界に完全に絶望していたからこそ、自らのすべてを人工知能に明け渡し、光へと融けることができた。
しかし、いまの蓮の脳裏に焼き付いて離れないのは、ソファで無防備に眠る一華の姿だった。
一華をこの冷たい現実世界に一人きりで遺していけない。
彼女を置いて自分だけが消え去る恐怖。その強烈な「一華への未練」が、最期の境界線で蓮の意識を現実に強く繋ぎ止めてしまった。
脳のすべてを完全に明け渡すことができない以上、高次元へのジャンプアップの数式は不成立に終わる。
「が、はっ……!」
バグを起こした電気信号が逆流し、蓮は激しく血を吐いて床に倒れ込んだ。
耳の中のスロットから火花が散り、アンチバグが強制停止する。
全身を苛む激痛と、高次元の扉から無残に叩き落とされる寸前に聴いたリベロの言葉──その重圧の中、蓮はかすむ視界でソファの一華を見つめたまま、荒い息を吐き続けることしかできなかった。




