FILE_30: 隠された情動、歪な前進
「私から現物を奪うことはできない」という現実を突きつけ、一華を沈黙させたものの、蓮の胸中を占めていたのは勝利感などでは到底なかった。
むしろ、喉の奥が焼けるような苦しさが彼を支配している。
蓮は自らを動かす原動力を、創太君を追い詰めてしまった公安としての「罪悪感」であり、その贖罪のための行動だと信じ切っていた。
だからこそ、自分が身代わりに高次元へ行くべきだとさえ考えた。
だが、それは半分正しく、半分は決定的な嘘だった。
都合の良い大義名分の裏側で、蓮自身の知性が目を背け続けていた本音。
それは──あの日、創太君が消え去った光の中で、すべてを失って泣き叫んでいた一華の姿が、どうしても脳裏から離れないということ。
創太君を助け出したい。
それは義務ではなく、他ならぬ「一華のために」成し遂げたい願いだった。
彼女が創太君の元へ行くことをこれほどまでに拒み、必死に反対している理由。
それは、肉体の消滅に伴う危険を案じているだけでなく、一華という存在がこの世界から完全に消え去ってしまうことに、自身の心が耐えられないからだった。
罪悪感という冷徹な仮面の裏に隠されていたのは、あまりにも不器用で、しかし強固に根を張った、彼女への「恋心」に他ならなかった。
蓮自身、まだその情動の正体に気付いていない。ただ、アンチバグを握る指先が、彼女を失いたくないという一心で痛いほどに強張っていた。
対峙する一華は、蓮の射抜くような視線を受け止めながら、苛立ちに似た息を吐き出した。
(邪魔よ。本当に、どうしてこの男はいつも私の前に立ち塞がるの……)
論理的に考えれば、目の前の男はかつて創太を追い詰めて、自分たちの平穏を徹底的に破壊した公安の追っ手だ。
憎むべき対象であり、その言葉など一切を拒絶し、嫌悪の限りを尽くして撥ね退けるのが、これまでの彼女の「正しい回路」だったはずだった。
それなのに。先ほどから続く蓮の、必死に自分を繋ぎ止めようとする泥臭い説得を耳にしているうちに、一華の中で心の拠り所が静かに組み替わっていくような、奇妙な旋律の狂いが生じていた。
不思議と、以前ほど彼を心から拒み、嫌う気持ちが湧き上がってこないのだ。
すべてをデータと最適化でしか片付けない神代玲二という怪物を見た後だからだろうか。
目の前で傷つき、葛藤し、それでも自分をまっすぐに見つめて言葉をぶつけてくる蓮の姿が、酷く人間臭く、そしてどこか切実に映っていた。
「……一華さん」
蓮が再び、静かに、しかし断固としたトーンで呼びかける。
アンチバグという絶対的な切り札を持つ蓮の優位は揺るがない。しかし、その場に流れる空気は、先ほどまでの冷徹な交渉のそれとは明らかに変わっていた。
目的のために命すら投げ出そうとする一華と、無自覚な情動に突き動かされて彼女を阻む蓮。
互いのエゴと隠された情動が狭い部屋の中で激しく擦れ合い、二人の関係は、これまでとは違う歪な繋がりへと傾き始めていた。




