FILE_29: 歪な天秤、贖罪の代償
「……ジャンプアップしたら最後、もうこちらの世界には帰ってこられないんですよ」
蓮の声は低く、そして切実だった。差し出された一華の手を見つめながら、彼は必死に言葉を紡ぐ。
「父の言った通り、それは肉体の全粒子化──物理的な死と同義だ。創太君を取り戻すどころか、あなた自身が消滅する。そんな自殺行為、絶対に認められません。やめるんだ、一華さん」
「それがどうしたって言うの?」
一華は眉ひとつ動かさず、冷徹に言い放った。
「帰ってこられないなくても構わない。創太が一人でいる場所に、私も行くだけよ。あの子を一人きりにしたままで、私だけがこの世界で息をしていくことの方が、よっぽど不条理だわ。いいから渡しなさい、蓮」
聞く耳を全く持たない一華。その瞳の奥にあるのは、自暴自棄の絶望ではなく、目的だけを見据えた純粋な狂気だった。
一歩も引かない彼女を前に、説得の言葉を尽くしながら、蓮の胸の奥で猛烈な「罪悪感」が鎌首をもたげていた。
(……そうだ。そもそも、創太君をあの領域へ追い詰めたのは、公安としての私だ。私があの日、彼を捕らえようとしなければ、リベロと共に消えることもなかった)
その罪の意識が、蓮の脳裏に一つの極端な思考を滑り込ませる。
(だったら……私が行けばいいんじゃないか? 創太君を追い詰めた私がその領域へ行き、今度は彼をこちらの世界へ引き戻す方法を向こうで模索すればいい。一華さんが命を懸ける必要なんてない。これは、私の贖罪だ──)
激しい押し問答が、狭い部屋の中で続く。一華は言葉の刃で蓮を圧倒しようとし、蓮は自らの内に秘めた決意と、彼女を守りたい一心でその要求を拒み続ける。
しかし、この緊迫した天秤をわずかに傾けたのは、冷酷な現実のカードだった。
「どれだけ言葉を並べても無駄よ、蓮。私は何をしてでもそれを持っていくわ」
一華がさらに踏み込もうとした瞬間、蓮は一歩も退かずに、自分の上着の内ポケットに手を当てた。そこには、新法の外側で静かに眠る、あのアンチバグAIの物理チップがある。
「いくらあなたでも、物理的に存在しないものは奪えない。……そして、そのアンチバグを持っているのは私だ。アクセスキーも、起動コードも、私にしか扱えないようにプログラミングしてある」
蓮の視線が一華を射抜く。
「これを使う主導権は、私にある。あなたがどれほど拒もうと、私の許可がなければ、あなたはスタートラインにすら立てないんです」
蓮の言葉には、所有者としての絶対的な強さがあった。
どんな天才的な頭脳を持ってしても、現物が手元に渡らなければ、そして蓮が首を縦に振らなければ、一華の計画はただの絵空事で終わる。
差し出された一華の手が、悔しげに微かに震えた。二人の視線が火花を散らす中、部屋の空気は限界まで張り詰めていった。




