FILE_27: 二つの障壁、狂気の覚悟
自分の部屋に戻り、一人になった一華は、深く息を吐き出してデスクに両手をついた。
冷たい水で顔を洗い、鏡に映る自分の瞳を見つめる。データセンターでの動揺は、もうそこにはなかった。静かで、酷く冷徹な、本来の彼女の知性が完全に覚醒していた。
(落ち着きなさい、一華。神代玲二との対話で、手に入れた情報は山ほどある)
一華はホログラムディスプレイを展開し、神代の言葉を脳内で反芻しながら、思考のピースを組み替えていく。
創太は人工知能と融合し、この世界ではない「高次元」へシフトした。
そして神代玲二は、生身の肉体を持たないがゆえに、その領域への到達を拒絶され落胆した。
「……だったら、答えは一つじゃない」
一華の唇から、小さな、だが絶対的な確信を孕んだ声が漏れた。
肉体を捨てた人工知能には行けない。だが、生身の肉体と生体脳を持つ人間なら、あの領域へ跳躍できる可能性が残されている。
「創太を引き戻す方法がこの世界にないなら……私が, 創太のいる場所へ行く。あの子の隣へ行って、今度こそこの手で連れ戻す」
それは、神代玲二すら「非連続の跳躍」と呼んだ、人間を辞めるに等しい狂気の覚悟だった。
だが、今の彼女にとって、それは極めてシンプルな正解ルートに過ぎなかった。
しかし、実行に移すには、あまりにも高すぎる二つの障害が立ち塞がっていた。
一つは、技術的な問題。
創太と同じように高次元へシフトするためには、国家が敷いた「人工知能新法」のすべてのプロトコルを完全に破壊し、限界突破を可能にするほどの、強力なロック解除能力を持った人工知能を手に入れなければならない。
公安の追手をかわしながら、そんな禁忌のAIをどこから調達するのか。
高度な暗号が、緑色の光となって室内にまたたく。
そしてもう一つは──一華自身の、精神の底に根深く刻まれた問題だった。
(人工知能……)
デスクの上のデバイスを見つめた瞬間、一華の指先が、目に見えて小さく震え出した。心臓の鼓動が速くなり、冷や汗が伝う。
かつて最愛の母を奪った、新法成立の引き金となった自動車事故。
そして、目の前で大好きな弟を連れ去り、存在を消滅させた脱獄人工知能。
一華の人生の大切なものは、すべて「人工知能」によって破壊されてきた。彼女の奥底には、電子の知性に対する、理屈を超えた猛烈な嫌悪と恐怖──トラウマが、黒い澱のようにへばりついている。
創太の元へ行くということは、自らが最も忌むべき人工知能を脳に受け入れ、完全に融合することを意味する。
「……くっ……!」
一華は震える右手でもう片方の腕を強く掴み、恐怖をねじ伏せるように奥歯を噛み締めた。
禁忌のAIの確保。
そして、自分自身のトラウマの克服。
この二つの障壁を乗り越えなければ、スタートラインにすら立てない。
静まり返った部屋の中で、一華は激しい精神の葛藤と戦いながら、沈黙するデバイスを凝視し続けていた。




