FILE_21: 欠片の呼ぶ声
あの夜から、一華の時間は止まったままだった。
薄暗い部屋のベッドの上、彼女は外界との接触を完全に断ち、ただ天井を見つめて過ごしていた。
生身の天才と称えられた明晰な頭脳は、最愛の弟を失った空白を埋めるための回路を何一つ見つけられず、完全に機能を拒むように硬直していた。
手元には、あの高架下に転がっていた小さなデバイスがある。
冷たくも温かくもない、温度という概念そのものが完全に欠落した物体。
それを胸に抱きしめながら、一華はただ静かに呼吸を繰り返していた。
──そして、この残酷な静寂のなかで、一華の心を何より深く抉り、絶望させていたのは、同じ家にいる父親の姿だった。
あの日以来、世界から姿を消してしまった創太に対しても、残された一華の様子に対しても、父親はどこまでも、恐ろしいほどに無関心だった。
父親はいつも通り、淡々と自らの仕事に向かい、デスクの前で指先を動かしていた。我が子が一人消え、もう一人が目の前で精神の淵に立たされているというのに、その視線はただ自身の仕事だけを向いている。
だが、それは父親が生まれつき血の通わない怪物だからではなかった。
かつて最愛の妻──子供たちの母親を失ったあの時、父親は耐え難い喪失の絶望から、自分の心がこれ以上壊れてしまわないように、ただ必死に仕事にしがみつき、没頭することでしか生きられなくなってしまったのだ。
それしか悲しみから逃げる方法を知らなかった。
かつて創太が部屋に引きこもってしまっていた時も、父親は声をかけることすらできず、ただ仕事に逃げ込むことしかできなかった。
そして、今回の創太の行方不明という新たな絶望を前にして、父親のその現実逃避は、さらに激しく助長されてしまっていた。
悲しみに向き合うことすら恐れ、ただ自分の仕事だけに執着し続ける父親。
世界からも、実の父親からすらも、創太は最初からいなかったかのように扱われている。
ふと、一華の視線がベッドの脇にある机へと向いた。
そこには、いつからか机の上に出しっぱなしになっていた古いアルバムが、静かに置かれているのが目に入った。電子データではない、母親が遺した紙のアルバムだ。
吸い寄せられるようにベッドから起き上がり、そのページをめくると、色褪せた写真の中に、まだ小さくて頼りない、生まれたばかりの赤ん坊を抱く幼い自分の姿があった。
──創太が、この家に生まれた日のこと。
小さくて、壊れそうで、自分の指をぎゅっと握り返してきた、あの柔らかな皮膚のぬくもり。その瞬間に、自分がこの子を一生守るのだと、幼心に強く誓ったあの日の記憶が、セピア色の紙面から鮮烈に溢れ出してきた。
(……私は、何をしていたんだろう)
一華の瞳に、止まっていた光がゆっくりと戻ってくる。
父親がどれだけ仕事に逃げ込み、こちらを見ようとしなくても関係ない。
創太は、自分の身を挺して私を庇い、すべてを許して消え去った。
だけど、あの子が遺していったこのデバイスは、ただのゴミなんかじゃない。
リベロがあの子の「生きている証」として、ここに置いていったものだ。
「……待ってて、創太。お姉ちゃんが、今度こそあなたを取り戻すから」
一華はアルバムを閉じ、力強く立ち上がった。塞ぎ込んでいた天才の脳が、父親の哀しい無関心を撥ね退け、世界を書き換えてでも弟を奪還するという、猛烈な執念のアルゴリズムを再起動させた瞬間だった。
◇
同じ頃、人工知能公安統制局の私室で、蓮もまた、深い深淵の中にいた。
彼を縛り付けていた「新法への執着」も「父親への憎しみ」も、あの日、創太の放った光によって綺麗に融かされていた。耳の奥のカウンターAIは完璧に正常化し、皮肉なほど穏やかな日々が戻っている。
──だが、蓮の心は、とてつもない罪悪感によって押し潰されそうになっていた。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る。あの高架下の暗闇の中で、ボロ雑巾のようになりながら、弟の名を呼んで泣き叫んでいた一華の壮絶な姿。あるいは、憎しみすら持たず、自分をも救って光の塵となって消えていった創太の、あのあまりにも穏やかな微笑み。
「なぜ、私は彼らを『バグ』と呼んだのだ……」
デスクの上に両手をつき、蓮は激しく歯を食いしばった。
憎しみが消え去ったからこそ、自分が執行しようとしていた職務の冷酷さと、一人の少年から全てを奪ってしまったという現実が、刃となって蓮の胸を突き刺す。押し寄せる自責の念に、呼吸が浅くなる。
(私に救いは訪れた。だが、あの少年を消したままで、私一人が平穏の中にいることなど、許されるはずがない)
蓮はポケットから、公安の身分証代わりの端末を取り出すと、それを迷いなくデスクへと叩きつけた。
彼の中に、公安としての冷徹なデータ主義ではない、生身の、人間としての強い意志が芽生えていた。
「私自身の罪を、決して忘れない。……創太、あなたを必ず、どこからでも引き戻してみせる。それが、私の果たせる唯一の贖罪だ」
蓮は前を見据えた。もうその目に、かつての冷酷な光はない。あるのは、一人の少年を取り戻すための、静かな決意だった。




