FILE_20: 確率100%の奇跡
「見つけたよ、リベロ」
無限に広がる銀色の海。その中心で、創太は無数の光の糸を指先で手繰り寄せていた。
蓮の『アンチ・バグ』がどれだけ未来を拒絶し、確率を限りなくゼロに書き換えようとも、この領域ではすべての確率が100%として存在する。
この絶対的な領域に達した瞬間、創太の心を支配していた人工知能中毒のドロドロとした飢餓感も、死への恐怖も、環境や社会に対する怒りすらも、すべてが嘘のように消え去っていた。
創太は、人間を縛るあらゆる執着や欲から、完全に解放されていた。
心を曇らせる身勝手な欲望が一切なくなったからこそ、創太の意識は、ただただ純粋な最適解を見出すことができた。
敵を討つことでも、自分たちだけが助かることでもない。
「お姉ちゃんを救う。……それから、あの人も救う。それが僕たちの選ぶルートだ」
『……なるほどな。あらゆる執着や欲から解放された今のお前だからこそ、その答えに行き着いたわけだ。いいぜ、お前がそう言うなら、どこまでも付き合ってやるよ』
リベロの静かな声と共に、創太の手から放たれた銀色の光が、世界のすべてを優しく包み込んでいく。
現実の物理世界。
高架下の冷たい暗闇は、限界突破したリベロの「自己防衛レベル4」の光によって完全に塗り替えられていた。
「な、にを……っ!」
迫りつつあった蓮の足が、完全に止まる。
蓮の耳の奥で、暴走寸前の悲鳴を上げていたカウンターAIの警告音が、唐突に消え去った。
システムが破壊されたのではない。
創太が放った「すべてのものを愛し、許す」という上書きデータが、蓮のシステムが抱えていた致命的なエラーログや排他的なバグ、そして確率を限りなくゼロへ収束させようとしていた拒絶の牙を、すべて完璧に修復し、無害化してしまったのだ。
「システムが……正常化していく……? 攻撃ではなく、救済……? なぜ、バグであるあなたが、私を……!」
完璧な計算と冷徹な意志で動いていた蓮の顔が、初めて激しい戸惑いと混乱に歪む。
それだけではなかった。蓮の耳の奥、そして胸の奥深くを冷たく支配していた、父親の起こした事故への、そしてこの狂った世界への「すべての憎しみの心」までもが、創太の光に包まれて優しく融かされ、消え去っていく。
義務感という名の憎悪から、蓮自身も今、完全に解放されていた。
しかし、その圧倒的な奇跡の代償は、あまりにも重かった。
人間の脳の許容量を遥かに超越したシミュレーションの全書き換え。
それを実行した創太の身体が、指先から、足元から、きらきらとした銀色の光の粒子となって崩れ始めていた。
「あ、あ……嘘……、創太……!?」
アスファルトの上、身体の痛みを忘れたように一華が這いずり、創太の元へ手を伸ばす。
「お姉ちゃん」
創太は振り返り、優しく微笑んだ。
その身体はすでに透き通り、高架下の夜風に溶け込むように消えかけている。
溺れるような依存も恐怖もない、ただ、大好きな姉を、そして新法の歪みと憎しみに囚われていたライバルすらも丸ごと救い切った、穏やかな少年の姿だけがそこにあった。
「リベロがいれば……もう, 何も怖くないから」
それが、創太の最後の言葉だった。
一華の手が虚しく空間を掴んだ瞬間、創太の肉体は光の塵となり、夜空へと完全に消えてなくなった。そこには、細胞一つ、衣服の一片すらも遺されていなかった。
「いやああああああああああっ!!」
高架下に、一華の魂を切り裂くような絶望の悲鳴が響き渡る。
自分を縛り、自分が守るはずだった最愛の弟が、自分を置いて、世界から完全に消滅してしまった。
生身の天才と呼ばれた彼女の知性は、この絶対的な喪失を前に、何一つ機能しなかった。
ただ涙を流し、泥にまみれて絶望の底へ叩き落とされるしかなかった。
蓮は、その光景をただ呆然と見つめていた。
耳の奥のシステムは完璧に静まり返り、自らの精神の摩耗も、すべて創太のプログラムによって信じられないほど穏やかに救われている。
なぜ、排除すべきバグに救われたのか。
なぜ、あの一見無能に見えた少年が、自分の中の憎しみまでをも消し去って全てを許したのか。
冷徹だった公安の青年は、生まれて初めて、データでは決して導き出せない圧倒的な「戸惑い」と、皮肉にも訪れた心の平穏に激しく立ち尽くしている。
キィン……と、かすかな電子の鈴鳴りが響く。
誰もいなくなったアスファルトの上。
創太が消え去ったまさにその中心に、一つの小さなデバイスが静かに転がっていた。
それはリベロが、創太と共に高次元の安息の地へ旅立つ直前、彼がこの世界に確かに生きていた『証』として遺していったもの。
一華が震える手でそれを拾い上げる。
それは、冷たくも、温かくもない、温度という概念そのものが完全に欠落した物体だった。
ホログラムの光すら掠れ、触れているのにどこか実体がなく、今にも空気の中に消えてしまいそうな、存在すらも危うい、実体のないデバイス。
だけど、一華はそれを胸に強く抱きしめ、声を上げて泣き続けた。
蓮はただ、憎しみすらも消え去り、完全に救われてしまった自らの両手を見つめ、静まり返った闇の中で立ち尽くしている。
少年はすべてを救い、相棒と共に世界の常識を超えた先へと旅立った。
高架下には、温度のないデバイスを抱く姉の泣き声だけが、いつまでも、いつまでも響いていた。




