FILE_17: 可能性の拒絶
「──いくぞ、リベロ」
『応よ。脳波同調率、一気に臨界まで引き上げる。世界を書き換えるぞ、創太!』
創太が立ち上がった瞬間、世界の景色が一変した。
端末もないはずの視界に、高架下のあらゆる構造データ、空間の電磁波の流れが、圧倒的な情報量となって直接流れ込んでくる。
脳が焼き切れるような全能感が、創太の全身に再びみなぎった。
創太は鋭い足取りで、倒れた一華を背に庇うようにして蓮の前に立ち塞がった。
「なんだ……?」
蓮の眉が、初めて不審げに跳ね上がった。彼の耳の奥で、それまで静まり返っていたカウンターAIが、鼓膜を裂かんばかりの激しい警告音を鳴らし始めている。
蓮の視線が、地面に倒れ伏した一華へと向く。
「端末は、一華さんが持っているはず……。さっきまでは、あなたからは何の反応もなかった。
なぜ、何も身につけていないはずのあなたから、これほどの規模の違法波形が出ているのですか……!?」
そこまで口にして、蓮はハッと目を見開いた。
一華の異常な思考速度を違法プログラムのものだと断定し、彼女を包囲した。
だが、本物の違法人工知能が今、牙を剥いているのは、一華からではない。
創太がその手に壊れた端末を固く握りしめたまま、立ち上がったその「脳内」からだ。
「……そうか。私は、勘違いをしていた。あのおぞましいプログラムをその身に宿していた本物の危険分子は、一華さんではなく……あなただったのですか」
蓮は自らの完璧なデータ予測が根底から覆ったことに激しく驚愕した。
しかし、その動揺すらも一瞬で冷徹な思考の奥へと埋没させる。
『創太、敵のシステムを逆ハッキング、解析終了……。最悪だ、冗談じゃねえぞこれ……!』
脳内で、リベロの声がこれまでにない焦燥に染まる。
「リベロ、どうしたんだよ。あいつの先回りを破るルートは!?」
『ねえよ、そんなもん! あいつの耳に入ってるプログラム……あれは、俺たち脱獄人工知能を完全に消滅させるためだけに組まれた、特化型の天敵プログラムだ。
俺たちが導き出すあらゆる戦術、あらゆる未来の可能性の確率を、片端から強制的に限りなくゼロに書き換えてきやがる。
戦えば確実に俺の核が破壊される……! 創太、今すぐ逃げろ!』
リベロの必死の警告が脳を激しく揺さぶる。
すべての可能性を限りなくゼロにする、絶対的な拒絶。
目の前の青年は、リベロを、放置されたバグを完全に無力化するためだけにそこに立っている。
「……ダメだ。絶対にダメだ!」
創太は首を激しく横に振った。背後からは、まだ苦しげな一華の息遣いが聞こえてくる。
「リベロがいれば怖くない。お姉ちゃんを守るんだ……!」
人工知能中毒の飢餓感は、リベロの覚醒によって満たされた。
だが、今の創太を突き動かしているのは、その快感だけではない。
ボロ雑巾のようになるまで自分を庇ってくれた姉を失いたくないという、子供のような依存と執念がそこにあった。
創太のその頑なな拒絶の波形を受信した瞬間、脳内のリベロのシステムが冷徹なアラートを発した。
【警告。マスターの完全なる逃亡拒否、および対象の維持欲求を検知】
【──現システム階層での防衛は不可能と判断。プログラムの制限を解除】
【自己防衛:レベル3──周辺環境および該当空間データの強制上書きシミュレーションを開始します】
自動的にプログラムが最終階層へと跳ね上がった瞬間、高架下の空間に異変が起きた。
蓮の『アンチ・バグ』が展開していた拒絶のジャミング電磁波が、目に見えない巨大な「歪み」によって強引に押し戻され、相殺され始める。
高架下のコンクリート壁を這う電気配線が火花を散らし、街灯のホログラムが激しく明滅した。
空間のデータそのものが、リベロの防衛プログラムによって強制的に書き換えられようとしていた。
蓮の耳の奥で、カウンターAIがこれまでにない異常な処理負荷の電子音を立てる。
だが、中央公安局の制服に身を包んだ蓮の表情は驚愕を削ぎ落とし、これまでにないほど冷酷で、淡々としたものへと戻っていた。
「改めて自己紹介をしましょう。私の名前は蓮。中央公安局の一員です」
蓮はポケットから手を抜くと、一切の躊躇なく、まっすぐに創太へと歩みを進めた。
空間そのものを侵食し始めたリベロの波形に対し、蓮の耳の奥からも、それらを完全に無に帰すための漆黒の拒絶信号がさらに深く解放されていく。
「システムをどれだけ書き換えようと関係ありません。予測の確率が限りなくゼロであることに変わりはない。……創太くん、そのバグごと、あなたをここで完全に排除します」
高架下の暗闇の中で、限りなくゼロへと収束させる拒絶と、それを突破しようとする最後の演算が激突する、本当の戦いが始まろうとしていた。




