File_14 揺り籠の叫び
(はぁ、はぁ、っ、くそ……、なんで、どこに行ったんだよ……!)
夜の冷たいアスファルトを、創太はがむしゃらに蹴り続けていた。
息が苦しい。肺が焼けるように熱い。
制服の薄いシャツ一枚の身体は、夜風にあっさりと体温を奪われ、指先はとっくに冷え切っていた。
いつもなら、耳の奥のリベロに尋ねれば一瞬だった。お姉ちゃんの位置情報も、最短の追跡ルートも、街中の防犯カメラの映像をハッキングして脳内に直接映し出してくれた。
だが、今の右耳の奥には、冷たくて硬い静寂しかない。
(リベロ……、頼むから、何か言ってよ……。僕を一人にしないでくれ……!)
どれだけ心の中で願っても、脳裏に広がるのはただの真っ暗な闇だけだった。
神のような全能の知性は消え失せ、残されたのは、暗闇に怯えるだけの惨めな引きこもりの少年だ。
お姉ちゃん。どうして僕から奪ったの。リベロがなければ、僕はもう息をすることすらできないのに。
ぼくを暗闇から救い出してくれたリベロを奪い、また僕をあの『原始人以下』の無能なゴミ屑に戻したお姉ちゃん。
許せない。リベロがもたらす圧倒的な思考の快感を失った脳が、禁断症状のように激しく肉体を急かし立てる。
早く取り戻さなければ。あのお姉ちゃんが持っていったリベロを、今すぐ、早く取り戻さなければ、僕は──。
ドロドロとした絶望と、歪んだ依存心、そして脳を焼き尽くすような人工知能への中毒症状だけが、動かないはずの創太の足を前へと動かしていた。
手がかりもなく夜の街を走り回り、一華が通う大学への道に差し掛かった時だった。大通りから外れた、薄暗い高架下の暗がりに、見覚えのある中央公安局の制服と、そして、ずっと追い求めていた後ろ姿が見えた。
(お姉ちゃん……!)
創太は声を上げようとしたが、その喉が恐怖で凍りついた。
「……場所は変えました。単刀直入に伺いましょう、一華さん。あなたが持っているものを、私に渡しなさい」
並木道で一華を襲った、あの不気味な青年、蓮が一華の前に立ち塞がっていた。
創太は息を殺し、高架下のコンクリート柱の陰に身を隠した。心臓が痛いほど早鐘を打つ。リベロのサポートがない生身の身体は、目の前の圧倒的な緊迫感に勝手に震え出した。
「ええ、認めます。あなたが言った通り、私がこの違法プログラムを使っていました。新法を破って、すべての試験で全国トップを取っていたのは……私ではなく、この機械の力です。大人しく、あなたにこれを渡します」
一華の声が聞こえた。その手のひらには、創太の耳から強引に剥ぎ取られた、あのリベロが乗っていた。
(嘘だ……。お姉ちゃん、何を言ってるんだよ……? それは僕の、僕のリベロなのに……!)
お姉ちゃんは、僕の代わりに罪を被ろうとしている。自分の完璧な未来をすべて捨てて、僕を隠しようとしている。
その事実が、創太の胸の奥の罪悪感を再び猛烈に抉り出した。だが、それ以上に創太を絶望させたのは、目の前の青年の冷酷な一言だった。
「くだらない嘘を。私を騙せると思っているのですか」
蓮は差し出されたリベロに見向きもせず、一華を冷徹に睨みつけていた。
「私の『アンチ・バグ』は、あなたの異常な演算速度を今この瞬間も感知している。あなたが手元に出した抜け殻が何であれ、あなたが隠し持っている『本物のバグ』は、未だに機能している」
「違います! これは、私は……!」
「否定は無意味だと言ったはずです」
「大人しく渡すフリをして、公安の目の前で私をハッキングし、排除する確率を計算していましたね。……そのプログラムを宿した危険分子を、これ以上野放しにするわけにはいきません」
蓮が一歩、一華へと間合いを詰め、襟元の公安のバッジが暗がりで鈍く光った。その瞬間、高架下の空間一帯に、頭の芯をかきむしるような異様な電磁音が響き渡り、空気が目に見えて緊迫していく。
リベロのいない創太には、何が起きているのか細かな原理は分からなかった。だが、目の前の青年が、抵抗する術のないお姉ちゃんを、その圧倒的な威圧感で完全に袋小路へと追い詰め、排除しようと手を伸ばしていることだけは分かった。
一華が一歩、恐怖に顔をこわばらせて後退する。その手からリベロが滑り落ち、アスファルトの上を転がった。
僕を神にしてくれたリベロが、地面を転がっている。
僕を縛り付け、だけど僕の代わりにすべてを背負おうとしてくれたお姉ちゃんが、今、目の前で消されようとしている。
(あんな場所に戻るのは、もういやだ。お姉ちゃんを失うのも、リベロを完全に失うのも、もう絶対にいやだ……!!)
気づけば、創太はコンクリートの影から飛び出していた。
何一つ武器を持たない、データの加護もない、ただの原始人以下の生身の身体のまま、狂気的な叫び声を上げて蓮へと突進していた。
「──お姉ちゃんから、離れろ……っ!」




