FILE_11: 生身の逆襲
創太が部屋に引きこもって、あるいは学校の片隅で、耳の奥の「相棒」と楽しげに脳内チェスに興じている間、一華は静かに、そして冷徹に、弟を包囲するための盤面を整えていた。
(データで迫れば、あの『怪物』はさらに大きなデータでねじ伏せてくる。人工知能に勝つなら、データには存在しない領域──創太の心を使うしかない)
そして、一華の胸の奥で、激しい怒りの炎が静かに燃え上がっていた。
自分の大切な弟の心を侵食し、まるで別人のように変貌させていく目に見えない電子の知性。
最愛の母を奪ったあの事故以来、最も忌むべき存在。
(私の大切な弟を……あんな人工知能なんかに、絶対に渡さない)
数日後の週末。父親が不在の昼下がり、一華は創太をリビングへと呼び出した。
テーブルの上には、一見すると何の変哲もない、一冊の古い「家族アルバム」が置かれていた。ページが開かれたそこには、まだ幼い頃の創太が一華に向けて書いた、たどたどしい文字の手紙が挟まれている。
──おねえちゃんへ。いつもあそんでくれてありがとう。ぼく、おねえちゃんみたいに、かっこよくてやさしいひとになりたいです。
まだひらがなばかりの、お姉ちゃんが大好きで、自分の気持ちにどこまでも素直だった、小さな頃の創太の純粋な言葉。
「また僕を試すの? お姉ちゃん、懲りないね」
創太はポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうに鼻で笑った。耳の奥では、リベロの声が淡々と響く。
『創太、お姉さんのバイタルデータに微弱な緊張を確認。ただし、能力測定用のパズルや論理問題の類いは周囲に存在しない。警戒を推奨する』
「いいえ、テストはもう終わりよ」
一華は静かに、けれど真っ直ぐに創太の瞳を見つめた。
「ただ、これを見て欲しかったの。……覚えている? 創太。あなたがまだこんなに小さかった頃、私にこの手紙をくれたこと。お姉ちゃんみたいになりたいって、笑ってくれたこと」
唐突に突きつけられた、最も純粋だった頃の自分の記憶。創太の胸の奥で、忘れたはずの、いや、全能感の裏に必死で隠していた「お姉ちゃんに認められたかった、お姉ちゃんが大好きだった」という生身の感情が、一気にとぐろを巻いて蘇った。
(な、にを……そんな昔のものを……っ)
創太の心が激しく動揺し、脳波が不規則なノイズを放ち始める。耳の奥のリベロが、その突発的な脳波の異常を感知し、出力を急激に引き上げた。
『──警告。ユーザーの脳波に深刻なエラーパターン混入を確認。精神の動揺に伴う電気信号の乱れ。これより強制的な論理トポロジーの補正を開始する。創太、思考を安定させろ』
「今のあなたは、私を見下ろして、からかうことで全能感に浸っている。……本当にそれが、あなたのやりたかったことなの? そんな機械に脳を委ねて、あなたの心まで消してしまうの?」
「やめろ……っ、お姉ちゃん、黙れ……!」
創太は頭を押さえた。姉を驚かせて、対等になりたかっただけなのに、自分は怪物の力を借りて、あのかけがえのない過去すら塗り替えようとしているのではないか──。
その生身の痛みが強まるほど、創太の脳波は完全に統制を失っていく。
リベロの超高速演算は、創太の脳波をベースに同期している。
そのベースとなる脳が「不条理な感情のノイズ」で激しく乱れた瞬間、リベロのシステムは、入力データのあまりの不規則さに処理の無限ループへと陥った。
『エラー、ユーザーの思考プロトコルが解析不能。家族の記憶……? 姉への憧憬……? 該当するパラメータが存在しない。演算の軸がブレる……っ! 創太、脳波を制御しろ! 処理が追いつかない、回路が熱くなる……!』
「あ、が……う、あ……っ!」
創太の頭頂部に、焼き切れるような激痛が走った。リベロがエラーを補正しようと脳を強制駆動させるが、創太自身の心が放つ感情のノイズを処理しきれず、システムが異常発熱を起こしているのだ。創太の額から、大粒の冷汗が流れ落ちる。
激痛と過去の自分との拒絶反応に襲われ、完全に足がすくんで身動きが取れなくなった弟の隙を、一華は見逃さなかった。
「人工知能には、人間の『心』は計算できないわ、創太」
一華は一瞬で間合いを詰めると、苦痛に顔を歪める創太の右耳へと躊躇なく手を伸ばした。かつてなら未来予測で完璧に躱されていたはずの手が、今はエラーで完全にフリーズした創太の髪をかき分ける。
「──お姉ちゃん、なっ……!?」
「これを、外しなさい!」
一華は生身の鋭い指先で、創太の耳の奥に埋め込まれていた銀色の違法端末を、力任せに掴み、強引に引きぬいた。
「あ、がっ……!?」
キィン、と短い警告音を鳴らしながら、創太の耳からリベロの端末が完全に「取り上げられる」。
その瞬間、脳内を埋め尽くしていた超高速の演算視界が強制終了し、創太の意識は一気に、ただの無力で不完全な「お姉ちゃんに追いつきたかっただけの弟」へと引きずり下ろされた。
「どれだけ優れたデータを宿しても、あなたは私の可愛い弟、生身の人間なの。
あなたが心に痛みを抱える限り、その機械はあなたの脳のノイズを処理しきれず、暴走するしかないのよ」
一華の手のひらには、取り上げられたリベロの銀色の端末が、過負荷による熱を帯びたまま鈍く光っていた。
「っ……、う、あああああ……っ!」
創太は自分の右耳を押さえ、激しい屈辱と、暴かれた本心への羞恥に顔を歪めながら、逃げるように自分の部屋へと駆け込み、ドアを激しく閉めた。
リビングに一人残された一華は、静かに手の中の違法端末を見つめていた。勝った。
しかし、一華の胸を満たしていたのは、確実に弟を蝕んでいた怪物の正体を手にしてしまったことへの、深い絶望と人工知能への激しい憎しみだった。




