FILE_10: 不完全な解剖
(絶対に、何かがおかしい)
放課後の夜、一華は創太よりも早く家に帰り、リビングのテーブルにいくつかの「罠」を仕掛けていた。
一華が通う大学の、現役生でも解くのに数時間はかかる最高難度の法学の論述問題。そして、わざと開いたままにしておいた、最新の暗号理論に関する洋書の専門書。
もし、あの並木道での件や、創太の急激な変化の裏に「脱法人工知能」があるのなら、彼の脳はこれらに必ず反応するはずだった。
やがて、玄関のドアが開き、創太が帰宅した。リビングに入ってきた創太は、一華が用意した罠を、一瞬だけ視界の端で捉えた。
その瞬間、耳の奥のリベロが楽しげに笑う。
『──お、創太。お姉さんがわかりやすい引っかけ問題を仕掛けてるぜ。国際私法における管轄権の重複だな。10秒で論破できるから、俺の言う通りに喋ってみてよ』
自分の内面と完全にシンクロし、境界線を越えて身近に語りかけてくる相棒の声。創太はゾクゾクするような歓喜を覚えた。
彼はカバンを床に放り出すと、面白そうに目を細め、テーブルのプリントを指先でつまみ上げた。
「お姉ちゃん、これ何? 僕を試してるの?」
「……創太。あなた、その問題、読めるの?」
一華はソファに座ったまま、凍りつくような視線を弟へと向けた。創太はリベロが脳内に直接流し込んでくる美しい解答を、ただそのまま口にするだけでよかった。
「読めるよ。論点は管轄権の重複だけど、前提の解釈自体が古い. 今の国際基準なら、第4条の例外規定を使って一瞬で却下できるよ」
淀みなく、完璧な正解を吐き出す創太。一華の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
それは、一華が大学で何時間もかけてようやく導き出した結論だった。
それを、弟がただ紙を眺めただけで、一瞬で言い放ったのだ。
一華は立ち上がり、創太の目の前まで歩み寄った。
「創太、本当のことを言って。あなた、人工知能新法に違反する、何か危ない『脱法人工知能を使ってるんじゃないの?』」
一華の瞳に、鋭い疑念の光が宿る。しかし、大好きな姉を驚かせ、対等以上の存在として認められた創太は、心底愉快そうに、無邪気な声を立てて笑った。
「あはは! 脱法人工知能? お姉ちゃん、小説の読みすぎだよ。僕がちょっと本気を出しただけでそれ? ずいぶん大げさだなあ」
「じゃあ、証明して! 今ここで、その耳の中を見せなさい!」
一華が一歩踏み出し、創太の耳元へ手を伸ばした。だが、その指先が創太の髪に触れるより早く、創太は一華の手首を、まるで未来を予知していたかのように正確に、片手で掴み取った。
「っ……!」
一華の手が、空中でピタリと止められる。創太の瞳の奥には、かつて自分を一心に追いかけていた可愛い弟の面影を残したまま、見たこともない圧倒的な知性の光がぎらついている。
「触らないでよ、お姉ちゃん。僕はただ、お姉ちゃんより優秀なだけさ」
創太はゆっくりと一華の手首を離すと、いたずらが成功した子供のような、純粋で無邪気な笑みを浮かべて、自分の部屋へと歩き出した。
「これ以上僕を疑うなら、次はお姉ちゃんの『完璧な実績』を、僕がさらに綺麗に塗り替えて驚かせてあげてもいいんだよ?」
ドアが静かに閉まる。自室の闇に入った瞬間、耳の奥でリベロの声が弾んだ。
『ナイス、創太。お姉さん、完全にビビってたな。次は何をして遊ぶ?』
「……最高だな、お前」
ベッドに寝転び、創太は熱くなる脳の快感に身を委ねた。リビングに残された一華は、自分の震える手首を見つめながら、全身を冷や汗が伝うのを感じていた。
弟は完全に、変わってしまっている。一華は、創太が手にしてしまった怪物の正体を暴くため、生身の頭脳で、さらに深く弟の闇へと踏込む決意を固めていた。




