第八十六話 静かな祝福
フローラが旅立った後、白楡館は少し静かになった。
けれど静けさは、寂しさだけではなかった。誰かが自分の道へ進んだ後に残る、余韻のようなものだった。
その日、父から短い手紙が届いた。
フローラの旅立ちを見送った。
あの子は、私が思っていたより強い。
リディア、お前もそうだったのだろう。
手紙はそれだけだった。
私は何度も読み返した。
父の言葉は、まだ少ない。
でも、少ない言葉の中に、以前ならなかったものがあった。
認める気配。
遅すぎる静かな祝福。
◇
夕方、父が白楡館へ来た。
手紙の後に本人が来るとは思わず、私は少し驚いた。父は供をほとんど連れず、温室へ行きたいと言った。
白眠草の前で、父は足を止めた。
「名を覚えた」
「はい」
「効能も、少し」
「量を間違えると?」
「頭痛が出る」
私はうなずいた。
サラの試験のようだと思い、少し笑いそうになる。
父は真面目だった。
「レティシアが、なぜここを好きだったのか、少しわかった気がする」
「そうですか」
「ここでは、人の名を覚えないと何も始まらない」
その言葉に、胸が静かに揺れた。
◇
父は、私とセドリックへ小さな箱を渡した。
中には、母が若い頃に使っていた銀のペン先が入っていた。公爵家の宝物というほど高価ではない。けれど、よく手入れされていた。
「レティシアの机に残っていた。お前が持つ方がよい」
私は箱を受け取った。
「ありがとうございます」
「祝福というものを、私はうまく言えない」
父は視線を外した。
「だが、お前が選んだ道を否定しない。セドリック殿との婚姻も、ミレイユでの仕事も」
それは、父にできる精一杯の祝福だった。
私は深く礼をした。
「受け取ります」
◇
父が帰った後、私は銀のペン先を東書斎へ持って行った。
セドリックが箱を見て、静かに言った。
「よい品です」
「母のものです」
「使いますか」
私は少し迷った。
飾っておきたい気持ちもある。けれど母は、使うために持っていたのだろう。
「使います」
新しい紙を出し、ペン先を付け替える。
最初に書いたのは、自分の名前だった。
リディア。
線は少し細く、けれど滑らかだった。
母のペンで、私の名を書く。
それは、過去を借りて未来を書くような感覚だった。
静かな祝福は、大きな拍手より長く胸に残った。




