第七十九話 白楡学び舎の開講
白楡学び舎の正式開講日は、冬越しの報告書を出した翌月に決まった。
旧馬具倉は、もう馬具倉とは呼べないほど変わっていた。壁には文字表と数表、薬草の絵、重さの見本、橋の収支掲示。棚には石板と紙、インク、猫の札の見本が並ぶ。
相談室への廊下には、小さな鐘がかかっている。
サラはその鐘を磨きすぎて、メイに止められた。
「磨きすぎると、鐘も疲れます」
「鐘も?」
「たぶん」
メイが珍しく曖昧なことを言うので、皆が笑った。
◇
開講式には、王妃から祝辞が届いた。
王女の猫の絵もまた届いた。今度の猫は石板を持っている。サラはそれを見て、深く感動していた。
父も来た。
兄とフローラ、ミリア、セドリック、アシュフォードの羊毛組合の女たち、石切場の青年、サラの母、アニエス。白楡館の広間は、最初の寄り合いの日とは比べものにならないほど人でいっぱいだった。
私は前に立ち、短く話した。
「この学び舎は、立派な建物ではありません。すべての答えを持っているわけでもありません。けれど、自分の名前を書くこと、数を確かめること、困った時に声を届けること。その入口になります」
皆が静かに聞いている。
「ここで学ぶ人は、間違えます。教える人も間違えます。領主も間違えます。大切なのは、間違えた時に直せる場所であることです」
サラが強くうなずいた。
◇
最初の授業は、やはり名前を書くことだった。
一年前と同じ。
けれど人数が違う。年齢も違う。隣に座る人の身分も、仕事も違う。
父も後ろの席に座っていた。
「お父様も?」
私が小声で尋ねると、父は咳払いをした。
「見学だ」
サラがすかさず石板を渡す。
「見学の人も書きます」
父は抵抗しかけ、周囲の視線に負けて石筆を取った。
公爵が自分の名を書く。
隣では石切場の青年の妹が、自分の名を初めて書いている。
その光景を見て、私は胸がいっぱいになった。
名前を書くという同じ作業が、人を同じにするわけではない。
でも、同じ机に座る時間を作る。
それだけで、世界は少し変わる。
◇
授業の終わり、鐘が鳴った。
サラではなく、今日は石切場の少女が鳴らした。小さな手で紐を引くと、澄んだ音が広間に広がる。
誰かが拍手し、すぐに全員へ広がった。
白楡学び舎は、今日正式に始まった。
けれど本当は、ずっと前から始まっていたのだと思う。
雨の日に名簿を作った時。
サラが南畑の声を聞いた時。
フローラが数字の横に人がいると気づいた時。
アニエスが銅貨を受け取った時。
父がサラの名を書いた時。
小さな始まりが積み重なり、今日の鐘になった。
私はその音を、長く胸に留めた。




