第七十六話 父が覚えた名前
父がミレイユの人々の名前を覚え始めたのは、春の終わりだった。
最初は、白眠草の名を覚えるだけで精一杯だった。次に、救恤倉の鍵を持つガスパル。作業場のアニエス。読み書き寄り合いのサラ。
ある日、父は白楡館の庭でサラに呼び止められた。
「公爵様、私の名前を書けますか」
周囲が凍りついた。
サラ本人は、純粋な試験のつもりだったらしい。
父はしばらく沈黙し、それから真面目に答えた。
「書けると思う」
「思う、ではなく」
「書ける」
父は石板を受け取り、ぎこちなくサラの名を書いた。
少し字が硬い。けれど間違ってはいない。
サラは厳しく確認した。
「合っています」
「そうか」
父は、裁定会より緊張した顔をしていた。
◇
その日の午後、父は作業場を見学した。
以前なら、公爵が来れば女たちは手を止め、深く礼をし、言葉を待っただろう。今は礼をした後、作業へ戻る。父もそれを止めなかった。
アニエスが薬草袋を示す。
「これは咳用です。猫が布を巻いています」
「責任の猫だな」
父が言うと、作業場がざわめいた。
父が猫の名を知っている。
それだけで、少し事件だった。
アニエスは笑いをこらえながら説明を続けた。
「はい。材料と作業日はこちらに記録します。公爵様も、確認なさいますか」
「よいのか」
「確認していただくための記録です」
父は帳簿を開いた。
その手つきはまだ硬い。けれど、見ようとしている。
私は離れた場所から、その姿を見た。
許しとは別に、こういう日もあるのだと思った。
◇
夕方、父は私に言った。
「名前を覚えるのは、思ったより難しい」
「はい」
「だが、覚えると報告書の読み方が変わる」
父は庭の方を見た。
「サラと書いてあると、石板を持ったあの子の顔が浮かぶ。アニエスと書いてあると、薬草袋を結ぶ手が浮かぶ。数字だけの時より、重い」
私は静かにうなずいた。
父がようやく、数字の横に人を見るようになっている。
遅い。
あまりにも遅い。
でも、遅いから無意味だとは言い切れなかった。
「お父様」
「何だ」
「名前は、覚えた後も何度も確認してください。間違えることがあります」
父は少し眉を上げた。
「お前は、父に対しても容赦がないな」
「容赦ではなく、手順です」
父は短く笑った。
その笑いは、昔の食卓では聞いたことのないものだった。
◇
帰り際、父はサラへ小さな石筆の箱を渡した。
「字の試験の礼だ」
サラは驚いて私を見た。
私はうなずいた。
彼女は箱を受け取り、深く礼をした。
「ありがとうございます。次は公爵様のお名前を私が書きます」
「長いぞ」
「練習になります」
父は言葉に詰まり、それからまた笑った。
馬車が去った後、サラは箱を大事に抱えていた。
「公爵様も、字を間違えるんでしょうか」
「間違えると思います」
「じゃあ、直してあげます」
私は笑った。
父が誰かに直される未来。
それは、かつての私には想像できなかった。
けれど今のミレイユでは、少しだけあり得ることになっていた。




