第七十三話 相談室の初仕事
相談室の記録箱に、最初の紙が入ったのは、巡回授業の二日後だった。
紙は折り目だらけで、字はなかった。代わりに、白い布切れが一枚挟まれている。アニエスがそれを見て、顔を曇らせた。
「これは、石切場の家の印です。字を書けない人が、布で知らせたんだと思います」
差出人の名はない。
けれど相談室の約束は、名のある紙だけを受け取ることではなかった。
私はサラの母、アニエス、メイと一緒に部屋へ入り、記録帳を開いた。
「内容がわからない以上、まず石切場の巡回日に声をかけます」
「誰が困っているか、探し回るのは危なくありませんか」
メイが言う。
「ええ。だから、全員に聞く形にしましょう。布の印を出した人だけを探すと、かえって追い詰めます」
相談室の初仕事は、紙を読むことではなく、紙にできなかった声の周りを傷つけないことだった。
◇
石切場の集落で話を聞くと、問題は賃金表だった。
採った石の数と支払額が合わない。けれど石切場の帳面は親方の家にあり、働く者は口頭で聞かされるだけだった。布を入れたのは、石切場で働く青年の姉だった。
「弟は字を覚え始めたばかりです。おかしいと言ったら、親方に笑われました」
彼女は小さな声で言った。
「女が口を出すなとも」
私は胸の奥に冷たいものを感じた。
どこにでもある言葉。
だからこそ、放っておけば何度でも使われる。
「帳面を確認します」
「親方が見せるでしょうか」
「領主として求めます。ただし、最初から罪人のようには扱いません。間違いの可能性もあります」
怒りで動けば、相手は扉を閉める。
でも遠慮だけでは、弱い声がまた消える。
その間を歩くのは、思ったより難しかった。
◇
石切場の親方は、最初不機嫌だった。
「石の数なんて、昔からこうやっている。若い者が余計な知恵をつけるから揉めるんだ」
「知恵がつくと困りますか」
私が尋ねると、彼は言葉に詰まった。
帳面を確認すると、確かに一部の計算が合わなかった。悪意か、古い習慣の雑さかはすぐに決められない。けれど不足は不足だ。
親方は渋々、未払い分を次の支払いで加えると約束した。
「これからは、働く者にも控えを渡してください」
「全員にか」
「読めない者には、読める者が確認します。白楡学び舎からも手伝いを出します」
親方は苦い顔をした。
「面倒な時代になった」
「見えないまま奪われる時代よりは、ましです」
彼は何も言わなかった。
◇
相談室へ戻り、記録箱に結果を入れた。
布切れは返さず、相談記録の表紙に縫いつけることになった。字のない最初の声として。
サラはそれを見て言った。
「字がなくても、届いたんですね」
「はい」
「でも、いつか字で書けた方がいいですね」
「ええ」
白い布は、静かに帳面の表紙に収まった。
相談室は、すべてを解決できる場所ではない。
けれど、言えなかったことが届き、届いた声が記録になり、記録が次の手順になる。
それだけで、閉じていた扉は少し開く。




