第六十九話 最後の手紙
春祭りの後、私は一通の手紙を書いた。
宛名は、昔の私。
誰に出すわけでもない。母の手紙を入れていた小箱の中へ、一緒にしまうための手紙だ。
机の上には、白い紙がある。
以前なら、白い紙を見ると課題を思い出した。王妃教育の宿題、父への報告、殿下のための資料。紙は、私に求められるものを示す場所だった。
今は違う。
紙は、私が選ぶ言葉を置く場所だ。
私はペンを取った。
◇
十年前の私へ。
あなたは今、王宮の茶室で背筋を伸ばしているかもしれません。間違えないように、褒められるように、誰かの期待から落ちないように、息を詰めているかもしれません。
その努力は、無駄ではありません。
でも、努力したから愛されるわけではありません。役に立ったから、あなたの価値が決まるわけでもありません。
いつか、あなたは婚約を解消されます。
ひどい日です。白薔薇の匂いを、しばらく嫌いになるかもしれません。家に帰っても、誰もあなたを抱きしめてはくれません。父は妹を次に差し出そうとし、あなたには支えろと言います。
でも、その日で終わりではありません。
あなたは荷物をまとめます。泣きながらでも、手は動きます。古い領地へ向かいます。雨漏りのする館で、凍えた子どもに会います。火を灯します。
そこで、あなたは自分の名を取り戻していきます。
◇
私は一度ペンを止めた。
窓の外では、羊ではなく白楡の葉が揺れている。今日は白楡館に戻っている日だ。春祭りの片づけはまだ残っているが、広間は落ち着いている。
セドリックはアシュフォードの会議へ行き、フローラはサラたちと報告書を書いている。メイは廊下で誰かを叱り、マルタは鍋を洗っている。
日常の音。
私は続きを書いた。
◇
あなたは、すぐ強くなるわけではありません。
何度も怖がります。父の手紙に手が震えます。王都の廊下で昔の自分に戻りそうになります。誰かに愛されることも怖くなります。
それでも大丈夫です。
怖いまま進む方法を覚えます。
あなたを公爵家の長女とも、元婚約者とも呼ばず、何を望むのか聞いてくれる人に出会います。その人は、優しい言葉より先に契約書を持ってくるような人です。けれど、あなたの机を用意し、あなたが泣く時間を守ろうとしてくれます。
あなたは、その人を選びます。
自分で。
妹も、兄も、ミリアさんも、殿下も、お父様も、それぞれの場所で変わります。完全ではありません。遅すぎることもあります。謝罪が足りないこともあります。
でも、あなたは誰かが変わるのを待ってから生き始める必要はありません。
先に歩いていいのです。
◇
書き終える頃、夕方になっていた。
最後に、私はこう書いた。
あなたは、家族の期待を置いていきます。
けれど、家族を憎むためだけに生きるのではありません。
あなたは、新しい私を生きます。
泣いても、笑っても、間違えても、直しても。
あなたの名で。
リディアより。
私は手紙を畳み、母の手紙と一緒に小箱へ入れた。
母から私へ。
私から昔の私へ。
いつか、これを読む誰かがいるかもしれない。フローラかもしれない。未来の娘かもしれない。あるいは、誰も読まないかもしれない。
それでもいい。
言葉を残すことは、自分が確かにここを歩いたと示す小さな石だ。
私は箱の蓋を閉めた。
最後の手紙は、過去を閉じる鍵ではない。
これからも自分の名を忘れないための、静かな約束だった。




