第六十五話 婚礼前夜
婚礼前夜、白楡館は静かにならなかった。
廊下を誰かが走り、厨房ではマルタが最後の仕込みをし、メイは衣装の皺を三度確認した。フローラは祝辞の紙を失くしたと騒ぎ、結局自分の本の間から見つけた。サラは花籠の数を数え直し、途中で眠りかけてマルタに毛布をかけられた。
私は自室で、婚礼衣装を見ていた。
白い絹。白楡の銀糸。
明日、これを着る。
王太子妃になるはずだった私ではなく、セドリック様の隣へ、自分の足で歩く私として。
胸が高鳴り、少し怖い。
幸せな怖さというものがあるのだと、私は初めて知った。
◇
メイが夜半に茶を持ってきた。
「眠れないと思いまして」
「顔に出ていますか」
「奥様は、考えごとをなさると眉が少し寄ります」
「よく見ていますね」
「仕事ですので」
彼女はいつものように答えたが、目元はやわらかかった。
「メイ」
「はい」
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
メイは一瞬、動きを止めた。
それから深く礼をした。
「私は、奥様がご自分を置いていかないよう、荷物を持っただけでございます」
「それが、どれほど助かったか」
「明日からも持ちます。ただし、持ちすぎていたら叱ります」
私は笑った。
メイの言葉は、祝福よりも彼女らしい約束だった。
◇
フローラは、少し遅れて部屋へ来た。
目が赤い。
「もう泣いたのですか」
「予行練習です」
「そんな練習はしなくていいのに」
妹は婚礼衣装を見て、また涙ぐんだ。
「お姉様、綺麗です。まだ着ていないのに」
「気が早いです」
「でも、本当です」
彼女は私の隣に座った。
「昔、私はお姉様が何でもできるのだと思っていました。だから、私ができないことを全部お姉様に渡しても、平気なのだと」
「フローラ」
「ごめんなさい」
妹はまっすぐ言った。
私は彼女の手を握った。
「私も、あなたを守る相手としてしか見ていなかった時があります。あなたが自分で選べる人だと、信じるのが遅れました」
フローラは首を振った。
「私たち、姉妹をやり直せますか」
「やり直すというより、これから始めるのだと思います」
妹は泣きながら笑った。
◇
夜が深まり、ようやく館が静かになった。
私は一人で温室へ行った。
月明かりがガラスに薄くかかり、薬草の苗が静かに眠っている。母の手紙を入れた小箱を開き、最後にもう一度読んだ。
選んでいいのです。
その言葉は、今も胸に届く。
「お母様、明日、結婚します」
声に出すと、涙がこぼれた。
泣いても、もう慌てなかった。
役に立つことと愛されることは違う。
私は役に立たなくても愛されたいし、愛されても自分の役目を選びたい。
その両方を持って、明日へ行く。
温室を出る時、東の空がほんの少し白んでいた。
婚礼の日が、近づいていた。




