第六十四話 王都から戻る道
婚礼前の最後の王都行きは、思ったより穏やかに終わった。
王妃への正式な報告、婚姻契約書の確認、慈善市の収支提出、春市の記録の共有。予定は多かったが、どれも私を過去へ引き戻すものではなかった。
王宮の廊下を歩いても、足がすくまない。
白薔薇の茶室の前を通った時だけ、少し息が詰まった。
あの日の私が、まだそこに座っている気がしたからだ。
けれど扉は閉まっていた。
今の私は、その前を通り過ぎることができた。
◇
王妃は、婚姻契約書の写しに目を通し、満足そうにうなずいた。
「仕事机の条項まで入れるとは」
「必要でしたので」
「あなたらしい。いえ、あなたたちらしいと言うべきですね」
その言い方に、頬が熱くなる。
王妃はわずかに笑った。
「リディアさん。王宮であなたに教えたことが、あなたを縛った時期がありました」
「はい」
「今、それがあなたの道具になっているなら、少し救われます」
「道具にしました」
私ははっきり答えた。
「礼儀も、帳簿も、席順も、言葉も。すべて、今は私が使います」
王妃は静かにうなずいた。
「よい答えです」
その褒め言葉に、昔ほど飢えていない自分に気づいた。
嬉しい。
でも、それで自分の価値が決まるわけではない。
◇
王宮を出る時、ユリウス殿下とすれ違った。
彼は地方監査の旅支度をしていた。華やかな護衛ではなく、実務官たちと資料箱を運んでいる。
「リディア」
「殿下」
「婚礼には、王家の名代として王妃が祝辞を送る。私は北の視察で出席できない」
「そうですか」
「祝福している」
その言葉は、静かだった。
未練を押しつけるものでも、過去を取り戻そうとするものでもない。
「ありがとうございます。殿下の視察が実りあるものでありますよう」
殿下はうなずいた。
「手間も持って帰る」
私は少し笑った。
「よろしいかと」
短い会話で、私たちは別れた。
今度こそ、本当に。
◇
帰りの馬車には、セドリック様が同乗していた。
王都の城壁が遠ざかる。
私は窓からそれを見つめた。
「寂しいですか」
セドリック様が尋ねる。
「少し」
正直に答えた。
「嫌な場所でも、長くいた場所です」
「はい」
「でも、戻りたい寂しさではありません」
「では?」
「昔の私へ、ようやく手を振れた気がします」
セドリック様は何も言わず、ただ隣にいてくれた。
馬車は春の道を進む。
王都の石畳から、やがて土の道へ。遠くに山が見え、空気が少し湿る。ミレイユへ近づく匂いだった。
「リディア嬢」
「はい」
「帰りましょう」
その言葉に、胸が温かくなる。
「はい」
王都から戻る道は、もう逃げ道ではない。
私が選んだ場所へ帰る道だった。




