第五十八話 白楡館の舞踏会
白楡館で舞踏会を開くと言い出したのは、フローラだった。
「慈善市の成功と、橋の完成と、お姉様の婚約をまとめて祝えばよいと思うのです」
広間でそう言われ、私は即座に首を振った。
「舞踏会を開く余裕はありません」
「王宮のようなものではなくていいのです。村の春祝いに、少しだけ踊りを足すのです」
マルタが鍋の横から顔を出した。
「踊るなら、床を磨かなきゃね」
「マルタまで」
「祝える時に祝うのも仕事ですよ」
その言葉に、私は黙った。
確かに、私たちはずっと後始末と準備ばかりしてきた。雨害、裁定、監査、備蓄、慈善市。息をつく暇はあっても、喜ぶために立ち止まることは少なかった。
喜びも、放っておくと見えないまま流れてしまう。
「では、舞踏会ではなく、春祝いの夜会です」
私が言うと、フローラは満面の笑みを浮かべた。
◇
準備は、王宮の夜会とはまるで違った。
銀器を磨く代わりに、長机を壁際へ寄せる。楽師を呼ぶ代わりに、村の笛吹きとアシュフォードの弦楽師に頼む。絹の飾りではなく、白楡の若葉と乾燥花を窓辺に吊るす。
サラたちは、招待札を書いた。
文字はまだ揺れているが、一枚一枚に名前がある。
「奥様、王妃様にも送りますか」
「王妃様はお忙しいでしょう」
「でも、猫の札を気に入った王女様にも」
サラの目が真剣だった。
私は少し迷い、王妃へ控えめな案内状を送ることにした。来られなくても、ミレイユが祝えるようになったことを知らせたかった。
◇
夜会当日、広間は人でいっぱいになった。
村人、作業場の女たち、アシュフォードの職人、兄、フローラ、ミリア、そしてセドリック様。王妃は来られなかったが、王女から白いリボンと小さな猫の絵が届いた。
サラはそれを見て、しばらく言葉を失っていた。
最初の曲が始まる。
踊りは洗練されていない。誰かが足を踏み、誰かが笑い、子どもが走り回る。王宮なら眉をひそめられる場面が、ここでは温かいざわめきになる。
セドリック様が手を差し出した。
「一曲、お願いできますか」
「私でよろしければ」
「あなたでなければ」
短い言葉に、胸が鳴った。
私は彼の手を取る。
王宮で習った舞踏の足運びが、白楡館の床で少し違う音を立てた。完璧ではない。けれど楽しい。
「笑っています」
セドリック様が言う。
「いけませんか」
「いいえ。よく似合います」
私は足を踏みそうになった。
彼が小さく笑う。
広間の灯が、窓の外の春夜に揺れている。
かつて王宮で踊った私は、間違えないことばかり考えていた。
今は、間違えても笑える相手がいる。
◇
夜会の終わり、マルタが大鍋の最後を配った。
「ほら、踊ったら食べる。祝うには腹がいる」
皆が器を受け取る。
私は広間の隅に立ち、その光景を見た。
ここは、母が残した古い館だ。
雨漏りをして、埃をかぶり、忘れられかけていた場所。
今は、人の声と音楽と湯気で満ちている。
フローラが隣に来て、そっと言った。
「お姉様、開いてよかったでしょう」
「ええ」
「祝うのも、練習が必要です」
妹らしからぬ、けれど今の妹らしい言葉だった。
私はうなずいた。
喜ぶことを、これからも忘れないようにしよう。




