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公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


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第五十七話 ミリアの帳簿

 ミリア・ベルナードが白楡館しらにれかんを訪ねてきた時、彼女は大きな帳簿を抱えていた。


 王妃の許可を得て、地方会計の実地見学に来たという。以前の柔らかな色のドレスではなく、動きやすい薄茶の服。髪飾りも小さく、手にはインク染みがあった。


「リディア様、ご迷惑でなければ、作業場の会計を見せていただけませんか」


 彼女は深く礼をした。


 私は少し驚きながら、うなずいた。


「もちろんです。ミリア様」


「様は、できれば」


 ミリアは顔を赤くした。


「今は見習いですので、ミリアとお呼びください」


 その言葉に、昔の茶室の光景が一瞬よぎった。


 王太子の後ろで震えていた彼女。私を見ながら、殿下を慰めたかっただけだと言った彼女。


 今、目の前の彼女は、帳簿の重さで腕を少し震わせている。


「では、ミリアさん」


「はい」


 彼女は安堵したように笑った。


    ◇


 作業場の会計は、簡単ではない。


 薬草の仕入れ、乾燥の手間、包装紙、猫の札、賃金、王都への輸送費、売上、領内用として売らない分の評価。数字は細かく、品物ごとに流れが違う。


 ミリアは最初、目を白黒させていた。


「王宮の慈善市では、売上と支出だけ見ていました」


「その前に、いろいろな手があります」


「はい。今、手が多すぎて迷子です」


 正直な言い方に、アニエスが笑った。


「迷子なら、こっちから見ればいいですよ。私たちが何袋作ったか」


 彼女は自分の作業記録を見せた。


 ミリアは真剣に覗き込む。


「この印は?」


「子どもが熱を出して休んだ日です。作業数が減った理由を書いておけって、奥様が」


「理由まで」


「数だけ見ると、怠けたみたいでしょう」


 ミリアははっとした顔をした。


「数字の横に、人がいる」


 その言葉に、私はフローラが初めて南畑の表を読んだ日を思い出した。


 同じ場所へ、別の人が辿り着いている。


    ◇


 昼食時、ミリアはマルタの鍋を前に緊張していた。


「私、王宮の作法で食べた方がよいでしょうか」


「こぼさなければ何でもいいよ」


 マルタが言う。


 ミリアは真剣にうなずき、スープを一口飲んだ。


「おいしいです」


「そりゃどうも」


「この干し肉の費用も、会計に?」


「今日は客用だから別だね」


「別」


 ミリアは食事中まで考え込む。


 サラが横から言った。


「ミリアさん、食べる時は食べた方がいいです。冷めると、マルタさんが悲しみます」


「悲しまないよ。怒るだけだ」


 マルタの返事に、皆が笑った。


 ミリアも少し遅れて笑った。


 その笑いは、誰かに可愛がられるためのものではなく、場に混じった人の笑いだった。


    ◇


 夕方、ミリアは帳簿に感想を書いた。


 作業数だけでは実態を表せない。家族の病、天候、材料不足、育児負担などの理由欄が必要。賃金支払い時、本人確認と説明を行うことで信頼が増す。猫の札は、購買意欲だけでなく使用説明への導線となる。


 最後の一文に、彼女らしい迷いが見えた。


 私は、慰めることを仕事だと思っていた。けれど、数字を正しく扱うことも、人を慰める一つの形かもしれない。


 私はその行を読み、ミリアを見る。


「よい記録です」


 彼女は目を潤ませた。


「リディア様にそう言っていただけるとは思いませんでした」


「私も、言う日が来るとは思っていませんでした」


 二人で少し笑った。


 過去は消えない。


 茶室での傷も、婚約解消の日も、なかったことにはならない。


 でも、人は同じ場所に留まらなくてもいい。


「ミリアさん」


「はい」


「王宮へ戻ったら、会計台の灯油を確認してください。薄められていないか」


 ミリアは一瞬きょとんとし、それから力強くうなずいた。


「はい。必ず」


 彼女は帳簿を抱え、白楡館を出ていった。


 その背中を見送りながら、私は不思議な安堵を覚えた。


 あの日、私の場所に立ったと思った人も、今は自分の場所を探している。


 それでいい。


 誰かの椅子を奪うのではなく、それぞれが自分の机を持てばいいのだ。

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