第五十六話 フローラの新しい役目
フローラの報告書は、王妃に褒められた。
ただし、褒め言葉は王妃らしく簡潔だった。
現場の声がある。数字の根拠を増やしなさい。
妹はその手紙を読み、喜ぶべきか反省すべきか迷った顔で白楡館へ来た。
「お姉様、これは褒められたのでしょうか」
「褒められています」
「でも、増やしなさいと」
「期待されています」
フローラは胸に手紙を抱いた。
「期待されるのが、少し怖いです」
「期待と命令は違います」
「はい」
「断ることも、相談することもできます」
妹はゆっくりうなずいた。
以前の彼女なら、期待された瞬間に笑顔で引き受けただろう。今は怖いと言える。そのことが、私は嬉しかった。
◇
王妃からの新しい役目は、地方教育記録官見習いというものだった。
正式な官職ではない。けれど、複数の領地で始まった読み書き寄り合いや基礎教育の試みを見て、共通する課題をまとめる仕事だ。
フローラは、ミレイユを最初の拠点に選んだ。
「お姉様がいるから安心、という理由だけではありません」
彼女は真面目に言った。
「ここには、失敗も記録されています。最初の寄り合いで大人が来にくかったこと、灯油が足りなかったこと、猫の絵で薬草説明が遅れたこと」
「最後は失敗に入るのですか」
「王妃様には入れるようにと言われました」
王妃様。
私は思わず笑った。
妹は本当に、王妃の下で鍛えられている。
◇
フローラは、聞き取りが上手だった。
相手の前に座り、急かさず、やわらかく問いを置く。以前は人を慰めるために使っていた雰囲気が、今は言葉を引き出す力になっている。
サラの母は、フローラ相手だと普段より多く話した。
「字を覚えて一番よかったのは、娘の名前を間違えずに書けることです」
「契約書ではなく?」
「それもあります。でも、最初は名前でした」
フローラは丁寧に記録した。
アニエスには、作業場の賃金について聞いた。
「銅貨を受け取った時、ご主人は何と?」
「最初は渋い顔をしていました。今は、何袋作ったと聞いてきます」
「嬉しいですか」
「少し。腹も立ちます。今さらかって」
フローラはそこで、顔を上げた。
「両方、書いてもいいですか」
「いいんですか」
「はい。両方あることが、大切だと思います」
その言葉に、私は胸の奥で拍手した。
妹は、人の感情を一つにまとめない書き手になりつつあった。
◇
夜、フローラは机に向かって報告書を書いていた。
私は隣で婚約契約書の最終確認をする。静かな時間だった。ペンの音が二つ、部屋に重なる。
「お姉様」
「はい」
「私、王太子妃候補を辞退してよかったです」
フローラは紙から目を離さずに言った。
「殿下が嫌だったわけではありません。王宮が嫌いだったわけでもありません。ただ、あの席に座ったら、私は自分が何を見たいのかわからないままだったと思います」
「今は、何を見たいですか」
「人が、自分の名前を書けるようになる瞬間です」
妹の声は静かだった。
「それを見ると、胸が温かくなります。私にも、そういう仕事があるのだと思えます」
私はペンを置いた。
「よい役目ですね」
「はい。私が選んだ役目です」
フローラは顔を上げ、少し照れたように笑った。
美しい妹。
でも今、その美しさは飾りではない。自分の選んだ仕事へ向かう人の顔に宿っている。
◇
数日後、王妃から正式な許可状が届いた。
フローラ・ローウェンを、地方教育記録官見習いとして一年間任命する。
父の署名も必要だった。
そこには、硬い字で名前が書かれていた。
フローラはその署名を見て、涙ぐんだ。
「謝罪ではありませんね」
「はい」
「でも、私の役目に反対しないということです」
「そうです」
妹は許可状を胸に抱いた。
「では、頑張ります。怖いですけど」
「怖いまま」
「はい。怖いまま」
私たちは笑った。
母の手紙から始まった言葉が、妹の新しい役目へつながっている。
家族の期待を置いてきたはずの道で、私たちはそれぞれ、自分で選んだ期待を持ち始めていた。




