第五十二話 王妃の視察
王妃エレオノーラがミレイユへ来る日は、朝から白楡館全体が落ち着かなかった。
王太子の視察とは、また違う緊張だ。殿下は学びに来た。王妃は、見抜きに来る。
メイは廊下の花を三度替え、マルタは「王妃様だろうと薄いスープは出さない」と鍋を見張り、サラは自分の字が曲がっていないか何度も看板を確認した。
私は朝の支度を終え、母の手紙を小箱に戻した。
王妃様に会う時、以前ほど怖くはない。
けれど、背筋は自然と伸びる。
◇
王妃は、少人数の供だけを連れて来た。
華美な行列ではない。濃い緑の外套に、動きやすい靴。彼女は玄関で私の礼を受けると、すぐに周囲を見た。
「屋根を直しましたね」
「はい。雨漏りのひどい西側から」
「温室は?」
「薬草苗と教材用に使っています」
「では、順に見せてください」
挨拶より視察。
王妃らしい。
私は案内を始めた。
救恤倉、旧馬具倉、読み書き寄り合い、作業場、橋の記録。王妃は細かく質問した。賃金の遅配はないか。女性たちの家内負担は増えていないか。寄り合いに来られない遠方の家はどうするか。猫の札は品質管理と結びついているか。
最後の質問に、サラが胸を張って答えた。
「責任の猫です」
王妃は一瞬だけ沈黙した。
「……覚えやすい名前ですね」
「はい」
サラは満足そうだった。
◇
昼食後、王妃は私を温室へ呼んだ。
供はいない。ガラス越しの光が、冬の終わりの弱い暖かさを落としている。
「リディアさん」
「はい」
「あなたは、王宮へ戻るつもりはありませんね」
確認の言葉だった。
「ありません」
「そう答えると思っていました」
王妃は薬草の苗を見た。
「以前なら、惜しいと思ったでしょう。あなたほど教育した娘を手放すのは、王宮にとって損失です」
私は黙って聞いた。
「今も惜しいとは思います。けれど、ここでのあなたを見て、別の考えも持ちました」
「別の考えですか」
「王宮に置くより、ここで根を張った方が、国のためになる」
胸が小さく震えた。
国のため。
その言葉は、昔の私を縛った言葉でもある。けれど王妃の声は、私を連れ戻すためではなく、ここに置くために使っていた。
「王妃様は、私を利用なさいますか」
思い切って尋ねた。
王妃は驚かなかった。
「はい」
即答だった。
私は目を見開く。
「ただし、今度は契約を結びます。地方教育と救恤管理の試行領として、ミレイユに正式な予算と権限を与えます。成果と失敗を報告してもらう。あなたの名を、無償の土台にはしません」
利用する。
でも、見えないところで使い潰すのではなく、条件を示す。
王妃らしい誠実さだった。
「考える時間をいただけますか」
「もちろんです」
「以前なら、その場でお受けしていました」
「知っています」
王妃は少しだけ笑った。
「だから、待ちます」
◇
視察の終わりに、王妃は広間で領民たちへ短く挨拶した。
「ミレイユで見たものは、小さな仕組みの積み重ねでした。鍵を分けること。名を書くこと。重さを量ること。賃金を記録すること。どれも派手ではありません。けれど、国はそうした小さな正しさで支えられます」
広間は静かに聞いていた。
「この場を作った皆に、王妃として礼を述べます」
王妃が頭を下げる。
ほんのわずかな角度だった。
それでも、王妃が領民へ礼をした。
サラの母が、涙を拭いていた。
マルタは目を赤くしながら鍋の蓋を押さえている。
私はその光景を見て、王宮で学んだ礼儀が、ここで別の形に実を結んだのだと思った。
王妃が帰る時、彼女は私に言った。
「リディアさん。幸せにおなりなさい」
命令ではなく、祝福だった。
私は深く礼をした。
「はい。そうします」




