第四十六話 婚約契約書
婚約が決まった翌日、セドリック様は契約書を持ってきた。
普通なら、もう少し余韻に浸るところかもしれない。花束や詩、優しい言葉、庭の散歩。けれど彼は朝の鐘が鳴る頃に白楡館へ現れ、革筒から書類を三部取り出した。
「婚約契約案です」
私は思わず笑ってしまった。
「セドリック様らしいです」
「早すぎましたか」
「いいえ。とても安心しました」
彼は少しだけ肩の力を抜いた。
広間の机に契約書を広げると、メイが当然のように茶を置き、兄が当然のように椅子を引き、フローラが当然のように予備のインクを持ってきた。
「皆、読む気ですか」
「婚約契約ですから」
兄が真面目に答える。
「公爵家として確認する必要がある」
「兄様」
「ただし、リディアの意思が最優先だ」
その一言で、私は黙った。
かつて婚約は、私の知らないところで決められた。幼い私は、王宮で発表され、周囲の拍手の中で礼をした。契約書の中身を読んだのは、かなり後になってからだ。
今回は違う。
私の前に、私のための紙がある。
◇
契約書は、驚くほど細かかった。
婚姻後もミレイユの管理権はリディア個人に残すこと。アシュフォードとの共同事業は、婚姻によって自動的に吸収されないこと。白楡館の使用権、救恤倉の三鍵制度、読み書き寄り合いの予算、作業場の賃金規定。
そして、私の持参財について。
「持参財をアシュフォード家の自由財産に入れないのですか」
「入れません。あなたの資産です」
「婚姻後の共同生活費は?」
「別表に負担割合を」
セドリック様は、当然のように別紙を示した。
兄が感心したようにうなる。
「ここまで分けるのか」
「曖昧な財産は、後で争いになります」
「耳が痛いな」
兄は苦笑した。
私は条項を読みながら、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
信頼とは、何も書かないことではない。
書いて、確認して、それでも一緒にいることを選ぶことだ。
王宮では、愛や忠誠という言葉が多かった。けれど言葉が多い場所ほど、私の権利は紙の上で薄かった。
この契約書は逆だ。
優しい言葉は少ない。けれど私の名が、何度も明確に書かれている。
◇
一つだけ、私は条項の追加を求めた。
「婚姻後、どちらかが重大な決定をする場合、相手へ事前に説明する義務を入れたいです」
セドリック様はすぐにペンを取った。
「重大な決定の範囲は?」
「領地間契約、大口支出、人事、住居、健康に関わること」
「健康?」
「倒れるまで働かないためです。私も、あなたも」
彼は少し黙った。
「必要ですね」
兄が横から言った。
「セドリック殿も、倒れるまで働く顔をしている」
「アルベルト様もです」
メイが即座に加える。
広間に笑いが起きた。
結局、その条項は「相互保護条項」と名付けられた。名付けたのはフローラだ。
「少し堅いでしょうか」
「婚約契約書には合っています」
セドリック様が真面目に言うので、フローラは嬉しそうにした。
◇
署名は、すぐにはしなかった。
セドリック様の提案で、三日間の確認期間を置くことになった。私、彼、兄、王妃、アシュフォード家の法務顧問がそれぞれ読み、疑問点を書き出す。
「求婚の翌日に契約書を持ってきたのに、署名は急がないのですね」
私が言うと、彼はうなずいた。
「急いで渡すのは、あなたが考える時間を長くするためです」
その答えに、胸が熱くなった。
急がせるための書類ではなく、考えるための書類。
私はその違いを、深く覚えておこうと思った。
◇
夜、契約書を部屋で読み返していると、フローラが訪ねてきた。
「お姉様、幸せですか」
まっすぐな問いだった。
私は少し考えた。
「はい」
言葉にすると、自然に笑みがこぼれた。
「幸せです。でも、幸せだから何も不安がないわけではありません」
「不安もあるのですか」
「あります。結婚も、領地も、王都との関係も。けれど不安を言っても壊れない相手だと思えるから、幸せなのかもしれません」
フローラはゆっくりうなずいた。
「私も、いつかそういう相手に出会いたいです」
「急がなくていいと思います」
「はい。まずは、報告書を期限までに出します」
妹らしい真面目な答えに、私は笑った。
机の上の契約書には、まだ署名がない。
けれど白い紙が、怖くなかった。
そこに書かれる私の名は、もう誰かに奪われるためのものではない。




