第四十五話 雪解けの求婚
セドリック様が求婚したのは、雪解けの水が橋の下を走り始めた日のことだった。
王都の慈善市を一月後に控え、白楡館は忙しかった。薬草の小袋、軟膏の瓶、読み書き寄り合いの記録、王妃へ送る事前資料。誰もが広間と旧馬具倉を行き来し、メイの小言すら追いつかない。
そんな日の午後、セドリック様は「橋を見に行きませんか」と言った。
「今ですか」
「今でなければ、あなたは日が暮れるまで働く」
「それは否定しにくいです」
「では、行きましょう」
メイが即座に外套を差し出した。
「行ってらっしゃいませ」
「準備がよすぎます」
「伯爵様から事前に伺っておりましたので」
私はセドリック様を見た。
彼は少しだけ視線をそらした。
「共犯者が多いのですね」
「信頼できる協力者です」
そう言われると、叱る言葉を失った。
◇
新しい橋は、ほとんど形になっていた。
石のアーチが川をまたぎ、欄干にはまだ仮の木枠がついている。雪解け水は濁っているが、橋脚はしっかり流れを受けていた。
たもとの記念石には、子どもたちの名が刻まれている。冬を越して、字の溝に少し土が入り、かえって馴染んで見えた。
セドリック様は、橋の中央で足を止めた。
風が冷たい。
けれど冬の底の冷たさではない。遠くに春が混じっている。
「リディア嬢」
「はい」
呼び方が、いつもより丁寧だった。
私は胸の奥で、何かが静かに整うのを感じた。
「以前、私はあなたの隣に立ちたいと言いました」
「覚えています」
「今も同じです。ですが、あの時より具体的に言います」
セドリック様は手袋を外した。
寒いのに、きちんと素手を見せる。契約書に署名する時のような、誠実な動作だった。
「アシュフォード伯爵セドリックとして、ミレイユ管理者リディア・ローウェンに婚姻を申し込みます。家同士の利害はあります。隣領協定も、橋も、仕事もあります。けれど、それらを理由にあなたを縛りたくはありません」
彼の声は、いつも通り低く、まっすぐだった。
「私は、あなたが朝に寝坊できる家を作りたい。泣く日があれば、泣く時間を取れるようにしたい。あなたが自分の名で結ぶ契約を、隣で読みたい。あなたが私の間違いを指摘し、私もあなたの荷を半分持てる関係でありたい」
視界が滲んだ。
美しい宝石の言葉ではない。
けれど私が欲しかった未来が、そこにあった。
「返事を、急がせていますか」
「いいえ」
私は首を振った。
「もう、待たせる理由を探していたのだと思います」
セドリック様の目が揺れた。
「理由?」
「怖かったから。誰かを選ぶことが、また自分を失うことになるのではないかと」
橋の下で、水が鳴る。
「でも、あなたは私を役目にしませんでした。待ってくれました。仕事を一緒に見てくれました。私が怒る時も、泣きそうな時も、答えを急がせませんでした」
私は手袋を外し、彼の手を取った。
冷たい指が触れ、すぐに温かくなる。
「私も、あなたの隣に立ちたいです」
セドリック様が息を止めた。
「それは」
「求婚を、お受けします」
言葉にした瞬間、涙がこぼれた。
今度は拭かなかった。
セドリック様は私の手を両手で包み、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
まるで大切な契約を受け取った時のように。
私は泣きながら笑った。
◇
白楡館へ戻ると、玄関前に人が並んでいた。
メイ、マルタ、ガスパル、サラ、トマ、ノエ、作業場の女たち、なぜか兄とフローラまでいる。
「皆、知っていたのですか」
「伯爵様は、領主への求婚を秘密裏に進めるには正直すぎました」
メイが言った。
セドリック様が少し気まずそうにする。
サラが待ちきれずに叫んだ。
「奥様、橋の上で返事しましたか」
「しました」
「いい返事ですか」
私はセドリック様と顔を見合わせた。
「はい」
歓声が上がった。
マルタが大きな鍋の蓋を開ける。
「じゃあ、祝うよ。泣くのは最後でも、食べるのは先だ」
皆が笑った。
兄は少し複雑そうな顔で、けれど穏やかにセドリック様へ頭を下げた。
「妹を、ではなく。リディアを、よろしく頼みます」
「はい。リディア嬢と共に、よろしくされます」
「妙な返事だな」
「彼女を預かるつもりはありませんので」
兄は目を瞬き、それから笑った。
その返事が、私はとても嬉しかった。
◇
夜、部屋に戻ると、机の上に母の手紙が置かれていた。
フローラがそっと出しておいたのだろう。
選んでいいのです。
その行を、私は指でなぞった。
「お母様」
私は小さく呟いた。
「選びました」
窓の外で、雪解けの水が遠く響いている。
春はまだ完全には来ていない。
けれど、橋の上で交わした言葉は、私の中で確かに芽吹いていた。
お読みいただきありがとうございます。
リディアが自分の意思でセドリックの求婚を受ける、大きな転換点でした。続きも見守っていただけましたら幸いです。




