第四十三話 兄の冬滞在
アルベルト兄様が白楡館へ来たのは、雪が本格的に積もる前だった。
公爵家の馬車ではなく、簡素な旅馬車だった。供も少ない。兄は厚手の外套を着ていたが、王都の人らしく足元が少し頼りなかった。玄関前の凍った泥に靴を取られ、危うく転びかける。
トマが慌てて支えた。
「大丈夫ですか、旦那様」
「……ありがとう。ミレイユの地面は、王都より正直だな」
兄が真顔で言うので、私は少し笑ってしまった。
「ようこそ、兄様」
「世話になる」
彼は私を見て、言葉を探すように黙った。
以前の兄なら、まず父の状況や王宮の話をしただろう。今日は、寒さで赤くなった指を握り、深く頭を下げた。
「リディア。遅くなったが、謝りたい」
玄関の空気が止まった。
「中で聞きます」
私はそう言い、兄を小客間へ通した。
◇
暖炉の前で、兄はしばらく手を温めていた。
メイが茶を置き、静かに下がる。扉の外に残っている気配はした。彼女らしい。
「父は、まだ自分の判断を正しいと言っている」
兄は火を見つめたまま言った。
「家を守るため。王家との関係を保つため。領地の細かなことは代理人に任せるべきだった。そう繰り返している」
「兄様は、どう思いますか」
「間違っている」
即答だった。
私は少し驚いた。
兄は苦く笑う。
「そう言えるまで、時間がかかりすぎた。私は父の隣で、帳簿の端を見ていたはずだ。支出の増え方も、代理人の報告が曖昧なことも、気づけたはずだった」
「兄様一人の責任ではありません」
「そう言ってもらうために来たのではない」
兄は私を見た。
「私は、優秀な跡継ぎでいることに慣れすぎた。父に認められ、家臣に従われることを、責任を果たしていることだと勘違いした。その間に、お前は王宮で、家で、ミレイユで、ずっと見えない仕事をしていた」
言葉が胸に重く落ちる。
謝罪は、時に痛い。
謝る人のために許しを急がされるからではない。自分がどれほど寂しかったか、ようやく形になってしまうからだ。
「兄様に、見てほしかったです」
口にすると、声が震えた。
兄は目を伏せた。
「すまなかった」
短い言葉だった。
私は泣かなかった。けれど、暖炉の火が少し滲んだ。
◇
兄の滞在目的は、監査協力だけではなかった。
彼は公爵家の次期当主として、ミレイユの新しい仕組みを見たいと言った。救恤倉、読み書き寄り合い、橋の共同管理、苦情箱。
「父のやり方を変えるには、代わりの形を知らなければならない」
その言葉に、私はうなずいた。
翌日から、兄は広間の机に座った。
最初、村人たちは警戒した。公爵家の跡継ぎが来たと聞けば当然だ。けれど兄は、彼らの前で偉そうに振る舞わなかった。むしろ、寒さに弱く、薪割りで手に豆を作り、マルタに「包丁を持つ手が危ない」と叱られていた。
その姿を見て、少しずつ空気が緩んだ。
サラは遠慮なく兄に石板を渡した。
「アルベルト様も、名前を書きますか」
「私の名前は長い」
「じゃあ練習になります」
兄は真剣に石筆を持った。
公爵家の跡継ぎが、子どもたちと並んで自分の名を書く。
その光景は、少し不思議で、少し可笑しかった。
◇
夜、兄と二人で廊下を歩いた。
窓の外には雪が積もり、白楡の枝が黒く浮かんでいる。
「フローラが変わった」
兄が言った。
「ええ」
「お前も変わった」
「兄様も」
彼は苦笑した。
「私は、変わり始めたところだ」
しばらく歩いてから、兄は立ち止まった。
「父は、謝らないかもしれない」
「そうでしょうね」
「それでも私は、家を変える。父を罰するだけで終わらせない。ローウェン家が誰かの上に座るだけの家でなくなるように」
兄の言葉は、まだ硬い。けれどその硬さは、父のように人を押さえつけるものではなく、自分を支えるためのものに見えた。
「兄様がそう言ってくださるなら、私は少し安心します」
「少しだけか」
「はい。実績が必要です」
兄は目を丸くし、それから笑った。
「厳しくなったな」
「ミレイユで鍛えられました」
廊下の向こうから、マルタの声が飛んだ。
「お二人とも、冷える前に戻ってくださいよ。偉い人ほど風邪をひくと面倒なんだから」
兄が肩をすくめる。
「ここでは、公爵家の跡継ぎも面倒な客か」
「はい」
私は笑った。
家族と笑うことは、こんなに久しぶりだっただろうか。
失ったものは戻らない。
でも、違う形で始め直せるものもある。




