第四十二話 フローラの選択
フローラは、王妃の前で正式に辞退を申し出た。
王太子妃候補から外れたい、という願いではない。今の自分には務まらないこと、家の都合で立つべき席ではないこと、学び直したうえで将来どの役目を選ぶか自分で考えたいこと。
その三点を、彼女は書面にまとめた。
王妃は、黙って最後まで読んだという。
その知らせは、妹本人からの手紙で届いた。けれど手紙の最後に、短く「お父様は大変お怒りです」と書かれていた。
私はその一文を見て、すぐに王都へ返事を書いた。
怒りは、あなたの選択が間違っている証拠ではありません。
必要なら白楡館へ戻ってきなさい。
ただし、逃げ場所としてではなく、次に立つための休み場所として。
書き終えてから、私は少し笑った。
昔の私なら、妹に「父を怒らせないように」と書いただろう。
今は、怒りの向こうに自分を置いていいと書ける。
◇
フローラは三日後に来た。
今回は泥に車輪を取られることもなく、馬車はまっすぐ白楡館へ着いた。妹は冬用の外套をまとい、手には分厚い書類袋を抱えている。
「お姉様、私、辞退できました」
玄関に入るなり、彼女はそう言った。
「よく言いました」
私が答えると、フローラの目に涙が浮かんだ。
「王妃様は、怒りませんでした」
「ええ」
「殿下も、怒りませんでした。ただ、少し寂しそうでした」
「そう」
「お父様は、怒りました」
「それは予想通りですね」
フローラは小さく笑った。
その笑いには、まだ痛みがある。けれど怯えだけではなかった。
彼女は書類袋から一枚の紙を出した。
「王妃様から、課題をいただきました。地方基礎教育の見習いとして、ミレイユの読み書き寄り合いを半年記録し、王宮へ報告するように、と」
「それは……」
「役目です」
フローラは背筋を伸ばした。
「でも、私が選びました」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
妹は、誰かの代わりではなくなった。
美しい飾りでも、王太子の慰めでも、公爵家の取引材料でもない。
自分で選んだ未熟な役目を、抱えてここへ来た。
◇
読み書き寄り合いにフローラが現れると、子どもたちは大騒ぎになった。
公爵令嬢というより、王都から石板をくれた人として覚えられていたらしい。サラは遠慮なく、彼女へ新しい看板の文字を見せた。
「フローラ様、この字、変ですか」
「少し傾いています。でも、読みやすいです」
「傾いてるのに?」
「人の字は、少し傾くものです」
フローラがそう言うと、サラは満足したようにうなずいた。
私は横で聞きながら、妹の変化を感じていた。
以前のフローラなら、綺麗かどうかを先に見ただろう。今は、読めるかどうかを見ている。
それだけで、彼女はここで学んでいる。
夕方、フローラは寄り合いの記録をまとめた。
「子ども十二名、大人十名。新規参加は粉挽き小屋の妻と息子。今日は名前、数字、重さ。鍋は豆と干し肉。猫の絵に人気がありすぎて、薬草の説明が後回しになりかけました」
「最後の一文は必要ですか」
「王妃様が現場の様子を書けとおっしゃったので」
妹は真面目だった。
私は笑いをこらえた。
◇
夜、フローラと二人で母の手紙を読み返した。
役に立つことと、愛されることは同じではありません。
その行に、妹は指を置いた。
「私、まだ愛されたいと思います」
「私もです」
フローラが驚いた顔をする。
「お姉様も?」
「ええ」
「お姉様は、もう強いから」
「強くなっても、愛されたい気持ちはなくなりません」
妹はしばらく考え、それから小さく笑った。
「それを聞いて、安心しました」
私も同じだった。
誰かに認められたい。選ばれたい。愛されたい。その願いを消す必要はない。ただ、そのために自分を差し出さない方法を覚えればいい。
「お姉様は、セドリック様にお返事なさるのですか」
突然の問いに、私は咳き込んだ。
「フローラ」
「皆、気にしています」
「皆とは」
「メイ、マルタ、サラ、ガスパルさん、たぶん王妃様も」
「王妃様まで入れないでください」
フローラは楽しそうに笑った。
私は頬の熱を冷ますように、窓の外を見た。
雪が薄く積もり始めている。
セドリック様への返事。
その言葉を胸の中で転がすと、怖さよりも温かさが先に来るようになっていた。
それが答えなのかもしれない。
まだ声にするには、少しだけ勇気がいるけれど。




