第三十九話 橋を架ける日
新しい橋の最初の石は、子どもたちが置いた。
もちろん、本当の土台石ではない。土台は石工たちが慎重に組み、川底を見ながら位置を決める。子どもたちが置いたのは、橋のたもとに作る小さな記念石だ。
けれどサラたちは、まるで王冠でも運ぶように両手で石を抱えていた。
「落としたらどうなりますか」
サラが真剣に尋ねる。
「拾います」
セドリック様が答えた。
「割れたら」
「別の石を探します」
「字を間違えたら」
「裏にもう一度書けます」
子どもたちは顔を見合わせ、それから安心したように笑った。
私は横で聞きながら、思わず微笑んだ。
間違えたら終わりではない。
そんな簡単なことを、私は大人になるまで知らなかった。
◇
橋の架け替え説明会は、思った以上に荒れた。
通行料に反対する声。工事中に遠回りを強いられる不満。共同管理になればアシュフォードに口を出されるのではないかという不安。ミレイユ側の負担が大きいのではないかという疑い。
どれも、もっともだった。
私は一つずつ聞き、書いた。
「反対意見も記録するのですか」
若い農夫が驚いた顔をした。
「記録します。あとで、言っていないことにされないように」
広間が少し静かになった。
反対を聞くことは、賛成を得る近道ではない。むしろ時間がかかる。けれど、聞かずに押し通せば、橋は石でできていても、足元は脆い。
最終的に、通行料は荷馬車のみ。徒歩と村内の小荷車は無料。収支は半年ごとに白楡館とアシュフォードで公開。修繕費の余剰は読み書き寄り合いの灯油代へ回す。
そう決まった時、誰かが言った。
「橋で字を習うことになるとはな」
笑いが起きた。
私は胸を撫で下ろした。
◇
工事は、冬前の短い晴れ間を選んで始まった。
川の流れを一時的に脇へ逃がし、古い木橋の傷んだ部分を外す。木槌の音、石を削る音、馬の鼻息、人々の掛け声。谷に音が満ちる。
セドリック様は、朝から現場に立っていた。
領主が現場にいると、職人たちは緊張する。けれど彼は口を出しすぎない。図面と違う箇所だけ確認し、あとは石工頭に任せた。
「任せるのがお上手ですね」
「失敗して覚えました」
「以前は?」
「全部見ようとして、全員に嫌がられました」
意外な過去に、私は笑った。
彼は少し不本意そうだ。
「笑うところですか」
「はい。安心しました」
「私が嫌がられていたことに?」
「セドリック様にも、そういう時期があったことに」
完璧な人はいない。
でも、その失敗を覚えて、今の形を作れる人はいる。
私もそうなりたいと思った。
◇
昼、工事現場にフローラが現れた。
王都へ戻っていた妹は、王妃の許可を得て短い滞在に来たという。以前より簡素なドレスを着て、髪飾りも小さい。けれど顔色はよく、背筋には自分で選んだ硬さがあった。
「お姉様」
「フローラ。来るなら知らせてくれれば」
「驚かせたかったのです」
少し得意げに言う妹は、幼い頃の顔に戻っていた。
彼女は馬車から木箱を降ろさせた。
「王都の古い石板と、練習帳です。王妃様が、寄り合いに使ってよいと」
サラたちが歓声を上げる。
フローラはその声に驚き、頬を赤くした。
「私、少しは役に立ちましたか」
「とても」
私が答えると、妹はうれしそうに笑った。
その笑顔は、誰かを慰めるためのものではなかった。
◇
夕方、最初の石が据えられた。
子どもたちが記念石の表面に、自分の名を一つずつ刻む。曲がった字、浅い字、深すぎて欠けた字。サラの字は、以前より少しだけ真っすぐになっていた。
最後に、私も名を書くよう促された。
「奥様の名がないと」
トマが言う。
「この橋は皆の橋です」
「だから、奥様も皆の一人です」
言い返せなかった。
石筆を受け取り、私は名前を刻んだ。
リディア。
その横に、セドリック様がアシュフォードの名を刻む。
二つの名は並んでいるが、重なってはいない。
それが、ひどく美しく見えた。
冬前の風が谷を抜ける。
古い橋はまだ半分残り、新しい橋はまだ低い石の列でしかない。
それでも人々は、その上に未来の足音を聞いていた。




