第三十七話 父の失脚
父の失脚は、劇の幕が落ちるようには来なかった。
翌朝に公爵位を失うわけでも、王宮の階段で兵に囲まれるわけでもない。大貴族の責任は、もっと静かに、もっと長く締められる。
最初に届いたのは、王宮監査官からの通達だった。
ローウェン公爵家の領地代理管理に関する帳簿提出命令。ボルマン商会との過去十年分の取引記録。ミレイユだけでなく、公爵家が代理管理している小領地すべてが対象になった。
白楡館の広間で通達を読むと、ガスパルが深く息を吐いた。
「これで、倉の中身を見られますな」
「見られるだけでは足りません。戻させます」
私の声が思ったより硬く響き、サラが顔を上げた。
私は少し表情を緩める。
「戻せるものは、です。失われた時間は戻りませんから」
薬草が届かなかった冬。薄い毛布で眠った子ども。水路の修繕が遅れ、今回の雨で危険にさらされた家。
帳簿の数字は返せても、その夜の寒さまでは返せない。
だからこそ、記録する。
失われたものを、なかったことにしないために。
◇
父からは、しばらく手紙が来なかった。
代わりに兄アルベルトから、分厚い包みが届いた。中には公爵家内部の支出写し、代理人の任命記録、ボルマン商会から公爵家家令へ渡った礼金の控えが入っていた。
添えられた手紙は短い。
リディアへ。
私がもっと早く見るべきだった。
父は、家のためだと言うだろう。だが家のためという言葉で、見ないことにしていたのは私も同じだ。
必要なら証言する。
兄より。
私は手紙を読み終え、しばらく動けなかった。
兄は、優秀な人だった。父の期待を一身に受け、公爵家の跡継ぎとして育った。私に優しくなかったわけではない。けれどいつも忙しく、いつも父の隣にいた。
その兄が、父の前ではなく、こちらへ紙を送った。
「奥様」
メイがそっと言う。
「泣くなら、今は誰も見ておりません」
「見ています」
「私だけです」
「あなたが一番よく見ます」
メイは少し笑った。
私は涙をこぼさなかった。けれど胸の奥で、昔の家の形がまた一つ崩れた。
崩れることが、必ずしも悪いとは限らない。
◇
王都では、父が政務会議の席を一時停止された。
理由は監査協力義務違反。提出された帳簿の一部に欠落があり、代理人の所在が不明になったことも重なった。
その知らせを持ってきたのは、セドリック様だった。
「失脚、と呼ぶ者もいるでしょう」
「父は、そう呼ばれることを何より嫌います」
「だからこそ、周囲は使う」
彼は遠慮なく言った。
私は窓の外を見た。庭では、サラたちが石板を洗っている。白い息が少し見える。季節はゆっくり冬へ向かっていた。
「嬉しいかと聞かれたら、違います」
「はい」
「でも、当然だとも思います」
「両方あっていい」
セドリック様は、いつも感情を一つにしろとは言わない。
それがありがたかった。
「父は、家を守っているつもりだったのでしょう」
「その可能性はあります」
「でも、家を守るために、家の下にいる人を見なかった」
「はい」
「私も、同じにならないようにしなければ」
言うと、彼は静かに首を振った。
「一人では無理です」
「無理?」
「どれほど気をつけても、領主は見落とします。だから帳簿を複数人で見て、村から声を上げられる仕組みを作る。あなた一人が清廉であることに頼る制度は、弱い」
厳しいけれど、正しい。
私が父と違う人間であろうとするだけでは足りない。父と同じ過ちを防ぐ仕組みがいる。
「読み書き寄り合いを、村ごとの相談日とつなげます」
「いい案です」
「苦情箱も置きます」
「名前を書く欄は任意に」
「はい」
父の失脚を聞いた日に、私たちは父の悪口ではなく、苦情箱の形を話し合った。
それが、私にはとても大切なことに思えた。
◇
夜、父からようやく手紙が届いた。
封蝋は以前ほど強く押されていない。文面は短く、怒りを抑えた分だけ冷たかった。
お前は、自分が何をしたのかわかっているのか。
ローウェン家は王家の信を失い、私の席は奪われた。お前が家の内側で話せば済んだものを、外へ持ち出したからだ。
今からでも遅くはない。監査の場で、娘として父の判断を信じると述べよ。
私は読み終え、紙を机に置いた。
今からでも遅くはない。
その言葉に、かつての私ならすがっただろう。遅くないなら戻れる。父に許され、家に戻り、すべてを丸く収められる。
けれど今、その言葉は違って聞こえる。
今からでも遅くはない。
見えなかったものを見るには。
傷つけた人へ責任を返すには。
自分の名で立つには。
私は返事を書かなかった。
ただ父の手紙を、証拠箱に入れた。
箱の蓋を閉める音は、小さかった。
けれどその音で、私の中の何かが静かに終わった。




