第三十六話 新しい学院計画
学院計画は、サラの一言から始まった。
「奥様、私はもっと字を覚えたいです」
橋の説明会のあと、広間に残っていた紙を片づけている時だった。サラは聞き取り表を丁寧に重ね、汚れた紙と使える紙を分けていた。雨害の混乱が落ち着いてからも、彼女は白楡館へ通い続けている。
「教会の祈祷書だけでは足りませんか」
「祈りは読めます。でも、種籾の数とか、薬草の名前とか、契約書の字は難しいです」
サラは少し頬を赤くした。
「それに、母さんが言いました。字が読めたら、商人にごまかされにくいって」
私は手を止めた。
その通りだった。
帳簿を読めない者は、数字を持つ者に従うしかない。契約書の文を読めない者は、相手の口を信じるしかない。母が救恤倉を作り、私が聞き取り表を整えても、領民自身が読めなければ、また誰かに蓋をされる。
「字を教える場所が必要ですね」
つぶやくと、メイが遠くからこちらを見た。
「奥様、そのお顔は新しい仕事を増やすお顔です」
「必要な仕事です」
「休息日の翌日に」
「昨日休みました」
「半刻の庭歩きは休息ではありません」
メイの小言を聞きながら、私は紙を引き寄せた。
学校。
前世の夢では、子どもも大人も机に向かっていた。硝子の塔で働く女たちは、幼い頃から文字を学び、自分の名を書き、契約を読み、賃金を受け取っていた。あれは遠い世界の光景だと思っていたが、すべてを真似る必要はない。
ミレイユには、ミレイユの形がある。
◇
最初の案は、すぐに壁にぶつかった。
場所は白楡館の旧馬具倉を使える。机は古い板を直せば足りる。問題は教師と時間だった。
村の子どもは畑や家の仕事がある。大人も同じだ。昼間に集めれば、生活が止まる。夜に集めれば、灯油がいる。無償で教えろと言えば、教える側が疲弊する。
私は広間で頭を抱えた。
「奥様、難しい顔です」
マルタが湯気の立つ茶を置く。
「学校を作るには、人と時間と油が足りません」
「全部ですね」
「全部です」
「なら、全部少しずつで始めればいいでしょう」
私は顔を上げた。
マルタは当然のように続ける。
「毎日やろうとするから足りないんです。市の日の午後、畑が早く終わる冬の夕方、雨の日。字を知っている者が一人ずつ教える。子どもだけじゃなく、大人も来ていい。そういう寄り合いなら、昔もありましたよ」
「寄り合い」
「奥様は、何でも立派な名前から始めようとなさる」
痛いところを突かれた。
王宮で学んだ私は、制度を作りたがる。枠を整え、規則を決め、予算を置く。それは必要だが、最初から大きな門を建てれば、誰も入れないことがある。
「では、読み書き寄り合いから始めます」
「そのくらいなら、鍋も出せます」
「鍋?」
「腹が減っては字も入らないでしょう」
マルタは真面目だった。
学校より先に鍋。
ミレイユらしい順番かもしれない。
◇
セドリック様に相談すると、彼はすぐに実用的な問題を出した。
「教える内容を絞った方がいい。文字、数、重さ、署名、借用書。最初はそれで足ります」
「歴史や詩は後回しですか」
「詩は人生に必要ですが、詐欺を防ぐのは署名です」
「とてもセドリック様らしいです」
「褒めていますか」
「はい」
彼は少しだけ満足そうにした。
アシュフォード領にも同じ問題があるらしい。山村では、薪や羊毛の取引で不利な契約を結ばされることが多いという。共同で教材を作れば費用を分けられる。橋の通行料から、一部を教育費へ回す案も出た。
「橋を渡る人が増えれば、学びの灯もともる」
私が言うと、セドリック様はペンを止めた。
「今のは、説明会で使えます」
「少し大げさでは」
「人は数字だけでは動きません」
彼がそんなことを言うとは思わず、私は笑った。
数字を大切にする人が、数字以外も見ている。
やはり、冷たい人ではない。
◇
学院計画という名は、結局まだ使わないことにした。
白楡館読み書き寄り合い。
メイは「地味です」と言い、マルタは「その方が来やすい」と言った。サラは看板を書きたいと言い出し、フローラから届いた手紙には、王都で使わなくなった石板と古い練習帳を送るとあった。
王妃からも、短い許可状が届いた。
地方基礎教育の試行として記録を残すこと。費用の一部は、ボルマン商会から回収予定の賠償金を充てることを認める。
最後に、王妃らしい一文が添えられていた。
泣くのは最後でも、学ぶのは早い方がよい。
私はその一文を読み、少し笑った。
◇
最初の寄り合いの日、旧馬具倉には予想より多くの人が来た。
子どもが十二人。大人が九人。なぜかガスパルも後ろに座っている。
「あなたは字が読めるでしょう」
「新しい字は苦手です」
彼は真面目に答えた。
サラは看板の横で胸を張っている。看板には、少し曲がった字で「しらにれ読み書き寄り合い」と書かれていた。
私は皆の前に立った。
王宮の式辞ほど整った言葉はいらない。ここに必要なのは、入り口の言葉だ。
「今日は、自分の名前を書くところから始めます」
ざわめきが起きた。
「名前は、誰かに呼ばれるだけのものではありません。自分で書ければ、契約にも、手紙にも、願いにも使えます」
私は石板に、ゆっくりと自分の名を書いた。
リディア。
その下に、ミレイユの名を書く。
「では、一緒に書きましょう」
石筆が板をこする音が、旧馬具倉に広がった。
たどたどしく、曲がって、時々間違える音。
それは、白楡館にともった新しい灯だった。




