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公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


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第三十五話 白楡館の朝食

 白楡館しらにれかんへ戻った翌朝、私は寝坊した。


 目を開けた瞬間、窓の光が高い。王都での緊張がほどけたのか、雨害から裁定会までの疲れがまとめて来たのか、体が鉛のように重かった。


 慌てて起き上がろうとすると、枕元に置かれた紙片が目に入る。


 奥様へ。


 本日の朝の急ぎはありません。広間は回っています。起きてから叱ってください。


 メイ。


 字の最後に、小さな点が二つ打ってあった。笑っているつもりだろうか。


 私は紙を持ったまま、しばらく呆然とした。


 朝の急ぎがない。


 そんな日が、自分に来るとは思わなかった。


 王宮では、起床の鐘より前に目を覚ました。ローウェン家では、父の予定とフローラの支度を確認した。婚約解消後のミレイユでは、毎朝何かが壊れ、何かが足りなかった。


 でも今日は、広間が回っている。


 私が寝ていても、世界は壊れなかった。


 そのことに少し傷つき、同じくらい救われた。


    ◇


 食堂へ行くと、皆が何もなかったように朝食を取っていた。


 マルタは鍋の具を分け、ガスパルは橋の説明会の席順を考え、サラはパンを両手で持ってかじっている。メイは私を見るなり、涼しい顔で椅子を引いた。


「おはようございます、奥様」


「起こさなかったのですね」


「起こす理由がありませんでした」


「理由なら、いくらでも」


「全部、他の者で足りました」


 胸にちくりと刺さる。


 メイはそこへ、温かいスープを置いた。


「奥様がいなくても足りる日を、奥様が作ったのでございます」


 言葉を失った。


 サラが無邪気に言う。


「奥様、昨日すごく疲れてました。顔が紙みたいでした」


「紙」


「白い紙です」


「そこは、せめて花にしてくれないかい」


 マルタが笑い、食堂に笑いが広がった。


 私はスープを一口飲んだ。


 野菜の甘みと、少し多めの塩。体に染みる味だった。


「おいしい」


「でしょう。寝坊した人には、塩を効かせるんです」


 マルタの声は荒いが、目元はやさしい。


 食堂の窓から、朝の光が入る。


 白楡館の朝食は、王宮の銀器よりも騒がしい。パン屑は落ちるし、誰かが水をこぼすし、話題は橋から鶏の卵まで飛ぶ。


 けれど息ができた。


    ◇


 食後、セドリック様が訪ねてきた。


 彼は玄関で外套を脱ぎ、いつも通り広間へ向かおうとしたが、メイに止められた。


「伯爵様、本日は奥様の休息日でございます」


「急ぎの書類ではありません」


「急がない書類なら、なおさら明日でよろしいかと」


 セドリック様が珍しく困った顔をした。


 私は階段の途中でそれを見つけ、思わず笑ってしまった。


「メイ、セドリック様をいじめないで」


「いじめてはおりません。健康管理でございます」


「私だけでなく、来客まで?」


「奥様に関わる来客は対象内です」


 セドリック様は真面目にうなずいた。


「では、庭を歩く程度なら許可されますか」


 メイは少し考えた。


「半刻までなら」


「承知しました」


 まるで正式な契約のように答えるので、私はまた笑った。


    ◇


 庭は、雨のあとで土が柔らかかった。


 温室のガラスは修理され、苗床には新しい札が立っている。解熱草、止血草、香草。サラの字とメイの字と、フローラが残していった字が混じっていた。


 セドリック様はその札を見て言った。


「字が増えましたね」


「はい。人も増えました」


「よいことです」


 私たちは並んで歩いた。


 王都での会話が、まだ胸の中に残っている。殿下の謝罪、最後の申し出になりかけた言葉、私の拒絶。


 セドリック様は、それを聞かない。


 聞かない優しさがあるのだと、私はこの人から知った。


「殿下とは、話しました」


 私が自分から言うと、彼は足を止めずにうなずいた。


「はい」


「王太子妃には戻らないと伝えました」


「はい」


「それを、セドリック様に報告したかったのだと思います」


 彼の歩みが少しだけ遅くなった。


「報告として受け取ってよいのですか」


「今は、はい」


「今は」


「まだ、言葉を選んでいます」


 私は温室の前で立ち止まった。


「私は、誰かの役目になることが怖いです。でも、誰かと並ぶことまで怖がりたくはありません」


 セドリック様は黙って聞いてくれた。


「あなたといると、私は自分でいられる気がします。それが、まだ恋という言葉で足りるのか、もっと別のものなのか、うまく言えません」


 顔が熱くなる。


 セドリック様も、少しだけ耳が赤い。


「急ぎません」


「はい」


「ただ、その言葉だけで、今日はかなり持ちます」


「持つ?」


「仕事が」


 真面目な顔で言うので、私は吹き出した。


 笑うと、胸の奥に残っていた王都の冷たい空気が薄れた。


    ◇


 半刻が過ぎる前に、メイが庭の入口へ現れた。


「お時間でございます」


「正確ですね」


 セドリック様が感心したように言う。


「奥様を休ませるためなら、時計にも勝ちます」


「では、私は退散します」


 彼は礼をし、帰っていった。


 その背中を見送っていると、メイが隣に立った。


「楽しそうでございました」


「そう見えましたか」


「はい。紙のようなお顔ではありません」


 私は苦笑した。


「白い紙は、もういいです」


「では、少し色が戻ったということで」


 白楡館の朝は、まだ続いている。


 急ぎのない日にも、仕事はある。けれど、私一人がすべてを抱えなくてもいい。


 食堂から、誰かがまた水をこぼした音がした。


 私は叱りに行く前に、一度だけ空を見上げた。


 よく晴れていた。

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