第三十四話 王太子の最後の申し出
裁定会の翌朝、王都は晴れていた。
宿泊用に用意された王宮の客室で目を覚ますと、窓の向こうに白い塔が見える。かつて毎日のように通った回廊、季節ごとの花を覚えた庭、王妃教育のために使われた小書斎。
懐かしさはあった。
戻りたい気持ちとは違う。
古い靴を見るような感覚だった。足に馴染んでいたはずなのに、今履けば痛むとわかる靴。
メイが朝の支度をしながら、低い声で言った。
「殿下より、お時間をいただきたいとのお申し出です」
櫛を持つ手が一瞬止まる。
「王妃様は?」
「お会いになるかは奥様の判断に、と」
奥様。
王都へ来ても、メイは私をそう呼ぶ。
その呼び名に背中を押され、私はうなずいた。
「会います。場所は開けた庭で」
「承知いたしました。扉の近くに私がおります」
「心配しすぎです」
「足りないくらいです」
メイは真剣だった。
私は少し笑い、支度を終えた。
◇
庭の東屋には、ユリウス殿下が先に来ていた。
春の花はまだ少ない。白い石畳の脇に、冬を越した緑が慎ましく伸びている。殿下はその緑を踏まないように立っていた。
「リディア」
「殿下」
礼をすると、彼は苦しそうに眉を寄せた。
「以前のように呼んではくれないのだな」
「以前とは立場が違います」
「そうだな」
殿下は東屋の椅子を勧めた。私は座ったが、机を挟んだ位置を選んだ。
彼はそれに気づき、何も言わなかった。
「昨日の裁定会で、私は多くのことを知った。いや、知っていたはずのことを、見ないでいたのだと思う」
「そうですか」
「君が王太子宮で担っていた仕事も、ローウェン家で背負っていた役目も、私は軽く見ていた」
殿下の声は、以前より低かった。
謝罪の言葉を、私は待っていたのだろうか。わからない。けれど聞いても、胸の傷が消えるわけではない。
「婚約解消の日、私は君を傷つけた」
「はい」
はっきり答えると、彼は目を伏せた。
「すまなかった」
庭の風が、東屋の白い布を揺らした。
私は膝の上で手を重ねた。
「謝罪は受け取ります」
「許してくれるのか」
「謝罪を受け取ることと、過去をなかったことにすることは違います」
殿下は息をのんだ。
昔の私なら、ここで言葉をやわらげただろう。殿下のお心も苦しかったのでしょう。私にも至らない点がありました。そうして、相手の罪悪感を軽くする。
今日はしない。
殿下が自分の重さを持つことまで、私の役目ではない。
◇
しばらく沈黙したあと、殿下は言った。
「王妃は、私の婚約者選定を白紙に戻すと決めた」
「伺っています」
「王太子宮の印章管理も、半年間、王妃宮の監督下に置かれる。私は地方監査へ同行し、実務を学び直すことになる」
罰としては穏やかだ。けれど王太子にとっては重い。王都で美しい言葉を述べるだけでは済まないということだ。
「必要なことだと思います」
「君は、そう言うと思った」
殿下は苦く笑った。
「リディア。もし、もしもだ。私が学び直し、君にふさわしい王太子になれたなら、もう一度」
「殿下」
私は静かに遮った。
最後まで聞けば、彼は申し出てしまう。申し出られれば、私は断らなければならない。その形を作る前に止めたかった。
「私は王太子妃には戻りません」
殿下の顔から、わずかな色が引いた。
「セドリック伯爵のためか」
「セドリック様は関係あります。ですが、それだけではありません」
私は庭の緑を見た。
「王宮で学んだことは、私の一部です。でも、私が今守りたい場所はミレイユです。白楡館で、名を呼ばれ、名を呼ぶ仕事があります。そこを捨てて戻れば、私はまた自分を置いていくことになります」
「王太子妃として、ミレイユを守ることもできる」
「できるかもしれません。けれど私は、それを望みません」
望まない。
その言葉は、こんなにも短いのに、私の中で長く禁じられていた。
殿下は机の上で手を握った。
「私は、君がいなくなって初めて、君を必要としていたことに気づいた」
「必要とされることと、愛されることは同じではありません」
母の言葉を、今度は私の声で言った。
殿下は目を閉じた。
「その通りだ」
◇
東屋を出る前に、殿下は深く頭を下げた。
王太子が、私に。
周囲の侍従が息をのむ気配がした。
「君のこれからが、君自身のものであるよう願う」
「殿下も、殿下ご自身の責任を果たされますよう」
礼を返し、私は庭を後にした。
門の近くで、セドリック様が待っていた。偶然ではないだろう。彼は何も聞かず、ただ私の歩調に合わせた。
「終わりました」
「はい」
「本当に、終わったのだと思います」
言葉にすると、涙が出そうになった。
セドリック様は少し考え、手を差し出した。
「馬車まで、距離があります」
「庭を歩くだけです」
「ええ。ですが、道はあります」
差し出された手は、急がせない。
私はその手を取った。
王宮の白い石畳を、彼と並んで歩く。
かつて未来だと思っていた場所から、今の未来へ向かって。




