第三十三話 ミリアの涙
ミリア・ベルナードは、裁定会の広間へ入ることを許されなかった。
関係者ではあるが、証人ではない。そう告げられ、彼女は王太子宮の控室で待つことになった。窓の外では雨が上がり、王宮の庭師が折れた枝を片づけている。
何かを待つ時間は、こんなにも長かっただろうか。
以前のミリアは、待つことが得意だと思っていた。ユリウスが執務から戻るのを待つ。機嫌が悪い時は、紅茶と菓子を用意して待つ。リディアが難しい話を終えるのを待ち、場が硬くなったところで笑いかける。
待っていれば、自分の出番が来た。
今は、待っていても何もできない。
扉の向こうを人が走るたび、彼女は肩を震わせた。
「ミリア様」
侍女が静かに入ってきた。
「王妃様がお呼びです」
胸が冷えた。
罰を受けるのだと思った。
王妃の私室は、思ったより明るかった。窓際の卓には、裁定会の資料が積まれている。その横に、フローラが座っていた。
フローラ・ローウェン。
美しい公爵令嬢。次の王太子妃候補として名前が上がり、そして今日、自分には務まらないと申し出た人。
彼女の手袋には、薄いインク染みがあった。
ミリアはなぜか、その染みから目が離せなかった。
「座りなさい」
王妃に促され、ミリアは椅子へ腰を下ろした。
「ミリアさん。あなたに確認したいことがあります」
「はい」
「あなたは、ユリウスがリディアさんとの婚約を解消することを、いつ知りましたか」
喉が詰まる。
嘘をつけば楽になるかもしれない。知らなかった、突然だった、私も驚いた。そう言えば、少なくともその場は越えられる。
でも、裁定会の日に、まだその嘘を重ねるのか。
ミリアは膝の上で手を握った。
「茶室の二日前です」
フローラが息をのむ。
王妃の表情は変わらない。
「誰から」
「殿下からです。リディア様には、もう心がない。私といると息ができる、と」
「あなたは止めましたか」
涙が滲んだ。
「止めませんでした」
言ってしまうと、次の言葉が崩れた。
「私、嬉しかったのです。殿下が私を選んでくださるのだと思って。立派なリディア様ではなく、何も持っていない私を。私は、愛されるのだと」
声が震える。
「でも、本当は、殿下が何から逃げているのかも、リディア様が何を支えていたのかも、知ろうとしませんでした。私は、選ばれたかっただけです」
王妃はしばらく黙っていた。
叱責の言葉を待つ時間が、刃のように長い。
「選ばれたいと思うこと自体は、罪ではありません」
意外な言葉に、ミリアは顔を上げた。
「ただし、誰かを踏んだ上に立つなら、その足元を見る責任があります」
涙がこぼれた。
優しい慰めより、その言葉の方が胸に残った。
◇
王妃が席を外したあと、部屋にはミリアとフローラだけが残された。
沈黙の中で、ミリアは手元を見つめていた。
フローラが先に口を開く。
「私も、選ばれたかったのだと思います」
「フローラ様が?」
「はい。お父様に、王妃様に、殿下に。お姉様の代わりができるなら、私にも価値があると思えるかもしれないと」
ミリアは驚いた。
公爵令嬢は、価値を疑わないものだと思っていた。美しく、家柄もあり、誰もが振り向く。そんな人でも、選ばれたいと願うのか。
フローラは手袋を外し、インク染みを見せた。
「ミレイユで、帳簿を写しました。字を間違えると畑が困ると言われました。怖かったけれど、少しだけ、私の手にもできることがあるとわかりました」
「私は、何ができますか」
ミリアの声は、自分でも情けないほど小さかった。
フローラは首を傾げた。
「私にはわかりません。でも、何もできないまま殿下の隣に立つのは、苦しいと思います」
その言葉に、ミリアは泣いた。
リディアの前では泣けなかった涙だった。ユリウスの前で泣けば、慰めてもらうための涙になる。王妃の前では、裁きへの恐怖が混じる。
フローラの前でだけ、ただ恥ずかしくて泣けた。
◇
夕方、ユリウスが控室に来た。
ミリアは立ち上がり、深く礼をした。
彼は疲れた顔で、彼女を見た。
「ミリア、君も大変だっただろう」
以前なら、その一言で胸が温かくなった。
今は、違った。
大変だったのは自分だけではない。そう言えなければ、また同じ場所に戻ってしまう。
「殿下」
「どうした」
「私は、殿下のおそばを離れます」
ユリウスの顔が固まった。
「何を言う」
「男爵家へ戻り、勉強します。王宮で何をしていたのか、何を知らなかったのか、考えます」
「母上に言われたのか」
「いいえ」
ミリアは首を振った。
「私が決めました」
言えた。
それだけで、足が震える。
ユリウスは一歩近づいた。
「君まで私から離れるのか」
その声に、昔の自分が揺れた。必要とされたい。引き止められたい。私がいなければ駄目だと言われたい。
でも、それは愛ではないのかもしれない。
「殿下は、私がいなくても立たなければならない方です」
ミリアは涙を拭いた。
「私も、殿下がいなくても立てる人になりたいです」
ユリウスは何も言えなかった。
沈黙の向こうで、王宮の灯が一つともる。
薄められていない油の灯だった。
◇
夜、ミリアは王妃へ短い願書を提出した。
王太子宮付きの非公式滞在を解き、ベルナード家へ戻ること。三年後、王立学院の聴講生として政務と会計を学ぶ機会を願うこと。
王妃は願書を読み、署名をした。
「三年も待たずに、来月から地方行政の基礎講義を受けなさい」
「私が、ですか」
「泣いた分だけ、手を動かすこと」
ミリアはまた泣きそうになり、必死でこらえた。
泣くのは最後。
誰かがそうしてきたように。
彼女は深く礼をした。
その夜、ミリアは初めて、王太子のためではなく、自分の明日のために机へ向かった。




