表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/75

第三十三話 ミリアの涙

 ミリア・ベルナードは、裁定会の広間へ入ることを許されなかった。


 関係者ではあるが、証人ではない。そう告げられ、彼女は王太子宮の控室で待つことになった。窓の外では雨が上がり、王宮の庭師が折れた枝を片づけている。


 何かを待つ時間は、こんなにも長かっただろうか。


 以前のミリアは、待つことが得意だと思っていた。ユリウスが執務から戻るのを待つ。機嫌が悪い時は、紅茶と菓子を用意して待つ。リディアが難しい話を終えるのを待ち、場が硬くなったところで笑いかける。


 待っていれば、自分の出番が来た。


 今は、待っていても何もできない。


 扉の向こうを人が走るたび、彼女は肩を震わせた。


「ミリア様」


 侍女が静かに入ってきた。


「王妃様がお呼びです」


 胸が冷えた。


 罰を受けるのだと思った。


 王妃の私室は、思ったより明るかった。窓際の卓には、裁定会の資料が積まれている。その横に、フローラが座っていた。


 フローラ・ローウェン。


 美しい公爵令嬢。次の王太子妃候補として名前が上がり、そして今日、自分には務まらないと申し出た人。


 彼女の手袋には、薄いインク染みがあった。


 ミリアはなぜか、その染みから目が離せなかった。


「座りなさい」


 王妃に促され、ミリアは椅子へ腰を下ろした。


「ミリアさん。あなたに確認したいことがあります」


「はい」


「あなたは、ユリウスがリディアさんとの婚約を解消することを、いつ知りましたか」


 喉が詰まる。


 嘘をつけば楽になるかもしれない。知らなかった、突然だった、私も驚いた。そう言えば、少なくともその場は越えられる。


 でも、裁定会の日に、まだその嘘を重ねるのか。


 ミリアは膝の上で手を握った。


「茶室の二日前です」


 フローラが息をのむ。


 王妃の表情は変わらない。


「誰から」


「殿下からです。リディア様には、もう心がない。私といると息ができる、と」


「あなたは止めましたか」


 涙が滲んだ。


「止めませんでした」


 言ってしまうと、次の言葉が崩れた。


「私、嬉しかったのです。殿下が私を選んでくださるのだと思って。立派なリディア様ではなく、何も持っていない私を。私は、愛されるのだと」


 声が震える。


「でも、本当は、殿下が何から逃げているのかも、リディア様が何を支えていたのかも、知ろうとしませんでした。私は、選ばれたかっただけです」


 王妃はしばらく黙っていた。


 叱責の言葉を待つ時間が、刃のように長い。


「選ばれたいと思うこと自体は、罪ではありません」


 意外な言葉に、ミリアは顔を上げた。


「ただし、誰かを踏んだ上に立つなら、その足元を見る責任があります」


 涙がこぼれた。


 優しい慰めより、その言葉の方が胸に残った。


    ◇


 王妃が席を外したあと、部屋にはミリアとフローラだけが残された。


 沈黙の中で、ミリアは手元を見つめていた。


 フローラが先に口を開く。


「私も、選ばれたかったのだと思います」


「フローラ様が?」


「はい。お父様に、王妃様に、殿下に。お姉様の代わりができるなら、私にも価値があると思えるかもしれないと」


 ミリアは驚いた。


 公爵令嬢は、価値を疑わないものだと思っていた。美しく、家柄もあり、誰もが振り向く。そんな人でも、選ばれたいと願うのか。


 フローラは手袋を外し、インク染みを見せた。


「ミレイユで、帳簿を写しました。字を間違えると畑が困ると言われました。怖かったけれど、少しだけ、私の手にもできることがあるとわかりました」


「私は、何ができますか」


 ミリアの声は、自分でも情けないほど小さかった。


 フローラは首を傾げた。


「私にはわかりません。でも、何もできないまま殿下の隣に立つのは、苦しいと思います」


 その言葉に、ミリアは泣いた。


 リディアの前では泣けなかった涙だった。ユリウスの前で泣けば、慰めてもらうための涙になる。王妃の前では、裁きへの恐怖が混じる。


 フローラの前でだけ、ただ恥ずかしくて泣けた。


    ◇


 夕方、ユリウスが控室に来た。


 ミリアは立ち上がり、深く礼をした。


 彼は疲れた顔で、彼女を見た。


「ミリア、君も大変だっただろう」


 以前なら、その一言で胸が温かくなった。


 今は、違った。


 大変だったのは自分だけではない。そう言えなければ、また同じ場所に戻ってしまう。


「殿下」


「どうした」


「私は、殿下のおそばを離れます」


 ユリウスの顔が固まった。


「何を言う」


「男爵家へ戻り、勉強します。王宮で何をしていたのか、何を知らなかったのか、考えます」


「母上に言われたのか」


「いいえ」


 ミリアは首を振った。


「私が決めました」


 言えた。


 それだけで、足が震える。


 ユリウスは一歩近づいた。


「君まで私から離れるのか」


 その声に、昔の自分が揺れた。必要とされたい。引き止められたい。私がいなければ駄目だと言われたい。


 でも、それは愛ではないのかもしれない。


「殿下は、私がいなくても立たなければならない方です」


 ミリアは涙を拭いた。


「私も、殿下がいなくても立てる人になりたいです」


 ユリウスは何も言えなかった。


 沈黙の向こうで、王宮の灯が一つともる。


 薄められていない油の灯だった。


    ◇


 夜、ミリアは王妃へ短い願書を提出した。


 王太子宮付きの非公式滞在を解き、ベルナード家へ戻ること。三年後、王立学院の聴講生として政務と会計を学ぶ機会を願うこと。


 王妃は願書を読み、署名をした。


「三年も待たずに、来月から地方行政の基礎講義を受けなさい」


「私が、ですか」


「泣いた分だけ、手を動かすこと」


 ミリアはまた泣きそうになり、必死でこらえた。


 泣くのは最後。


 誰かがそうしてきたように。


 彼女は深く礼をした。


 その夜、ミリアは初めて、王太子のためではなく、自分の明日のために机へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ