第三十二話 公爵家の長女ではなく
裁定会の後半は、父の声が大きくなるところから始まった。
「そもそも、リディアは婚約解消後、精神的に不安定な状態にありました。家の許可なく地方へ移り、使用人を連れ出し、妹にまで不要な影響を与えた。彼女の判断をそのまま認めるのは危険です」
広間の端で、メイがわずかに眉を上げた。
不要な影響。
父にとって、私が自分で動くことも、フローラが自分で考えることも、不要なのだろう。
法務官は感情を入れずに尋ねた。
「ローウェン公爵。リディア嬢が不安定であるという医師の診断書はありますか」
「家族として見れば明らかです」
「診断書は」
「ありません」
「では記録には載せません」
短い応酬に、父の顔が硬くなる。
王宮の裁定会は、家の食卓ではない。父の断定がそのまま真実になる場所ではなかった。
私は、そのことに静かに息をついた。
次に、ガスパルが証言台へ立った。
老人は緊張で手を震わせていたが、声は意外なほど通った。
「レティシア奥様は、ミレイユを嫁入り後も気にかけておいででした。救恤倉の鍵は、毎年ご自身で確認されました。ですが亡くなられてから、ローウェン家の代理人が代わり、倉の出し入れも商会任せになりました」
「その代理人に、領民から異議は出なかったのか」
宰相の問いに、ガスパルはうつむいた。
「出せませんでした。公爵家のお名前がありましたので」
その一言が、広間に重く落ちた。
名前は盾にもなる。
そして、蓋にもなる。
◇
セドリック様は、隣領として証言した。
彼はいつものように無駄な言葉を使わず、ミレイユの水路管理が母の死後に遅れたこと、共同協定の確認が途絶えたこと、今回の雨害で危険が表面化したことを説明した。
「アシュフォード側は、ミレイユ現管理者リディア嬢との協定再確認により、橋と水路の共同管理を再開する用意があります」
父が即座に反応した。
「伯爵は、娘を利用して隣領に口を出すおつもりか」
広間の空気が鋭くなった。
セドリック様は父を見た。
「私は、ミレイユの水が私の領にも流れるから口を出しています」
あまりに率直で、数人の書記官がペンを止めた。
「加えて、リディア嬢の判断を信頼しています。利用する意図があるなら、彼女に数字を見せず、契約書も読ませないでしょう」
父は唇を結んだ。
私は机の下で、指を握った。
利用しない。
その言葉は、告白よりも現実的で、だから深く胸に残った。
◇
最後に、王妃が私へ問いを向けた。
「リディアさん。あなたは何者として、この場に立っていますか」
難しい問いだった。
公爵家の長女。
元王太子婚約者。
レティシアの娘。
ミレイユの管理者。
そのどれも、私の一部だ。けれど今日の答えは、そこから選ばなければならない。
私は立ち上がった。
「ミレイユの管理権を持つ者として立っています」
父の目が動く。
「公爵家の長女としてではなく?」
王妃の声は静かだった。
「公爵家の長女であることは、消えません。けれど、それはミレイユの欠損を見逃す理由にはなりません」
「元王太子婚約者としてでもなく?」
「はい。婚約は解消されました。王宮で学んだことは使いますが、その立場に戻るためではありません」
王妃の目が、ほんの少しやわらいだ気がした。
「では、あなたは何を求めますか」
「ミレイユ管理権の正式確認。過去五年の代理管理監査。ボルマン商会との取引停止と損害賠償請求。救恤倉の再建に必要な費用の優先返還。そして、領内の生活を乱さない範囲での調査実施を求めます」
言い切ったあと、息が苦しくなった。
長い要求だった。娘の願いではなく、領主の要求だ。
法務官が記録を読み返す。
王妃はうなずいた。
「暫定裁定を出します」
広間の全員が姿勢を正した。
「ミレイユの現地管理は、リディア・ローウェンに委ねます。ローウェン公爵家の代理管理権は、監査終了まで停止。ボルマン商会は王宮および関連領地との新規取引を凍結。関係帳簿を差し押さえます」
父が立ち上がった。
「王妃陛下、それはあまりに」
「公爵」
王妃の声が、広間を切った。
「家の名は、責任を隠す布ではありません」
父は沈黙した。
私は自分の手が震えていることに気づいた。
勝った、とは思わなかった。
ただ、蓋が開いた。
長く閉じられていた箱に、ようやく空気が入った。
◇
裁定会が終わったあと、王妃に呼び止められた。
小さな控室だった。王妃は侍女を下がらせ、私と二人きりになる。
「よく話しました」
「ありがとうございます」
「私は、あなたを王宮で使い過ぎました」
思いがけない言葉に、息が止まる。
王妃は窓の外を見ていた。
「あなたの努力を、当然の土台にしていました。婚約解消の日も、あなたなら形を崩さず退くと、どこかで思っていたのでしょう」
その通りだった。
私は形を崩さなかった。崩せなかった。
「王妃様」
「謝罪で過去が戻らないことは知っています」
王妃は私を見た。
「それでも、謝ります。あなたを一人の娘として扱うべきでした」
胸の奥が痛んだ。
この人の言葉を、私は長く求めていたのかもしれない。褒め言葉ではなく、人として見ていたという確認を。
今さらでも、遅すぎても、聞けば痛い。
「王妃様に教えていただいたことは、無駄ではありませんでした」
「そう言わせるために謝ったのではありません」
王妃は少しだけ苦笑した。
「けれど、受け取っておきます」
私は深く礼をした。
控室を出ると、セドリック様が廊下で待っていた。
「終わりましたか」
「はい」
「帰りましょう」
その一言に、胸がほどけた。
王都の廊下は長い。けれどもう、私を飲み込む場所ではない。
帰る場所は、別にある。
お読みいただきありがとうございます。
裁定会まで進み、リディアが公爵家の長女ではなく自分の立場で声を上げる回でした。続きが気になると思っていただけましたら、評価で応援していただけると嬉しいです。




