第三十一話 王都裁定会
王都へ向かう馬車の窓から、私は白楡館の屋根が小さくなるのを見ていた。
裁定会の招集状が届いたのは、父への返書を出してから七日後だった。王妃エレオノーラの名で、ミレイユ管理権、救恤品欠損、ボルマン商会との不正取引について関係者の出席を命じる、とある。
逃げる理由はなかった。
母の帳簿、黒い荷札、水門で見つかった木箱の破片、父の帰邸命令。証拠は箱三つ分になった。セドリック様は隣領協定の写しを持ち、ガスパルは母の時代を知る証人として同行する。
馬車の向かいで、セドリック様は資料を読んでいた。
「眠れましたか」
「少し」
「嘘ですね」
「では、ほとんど」
「それも嘘です」
彼は資料から目を上げた。
私は降参して、窓へ視線を戻す。
「王都へ近づくほど、昔の自分に戻りそうで」
「戻ってもいいのでは」
意外な返事に、私は振り向いた。
セドリック様は淡々と続ける。
「王都で育ったあなたも、王妃教育を受けたあなたも、家の期待に応えようとしたあなたも、消す必要はない。その経験で、今日の席に立てる」
「嫌な記憶もですか」
「嫌な記憶を、相手に返すために」
その言い方に、少し笑った。
「セドリック様は、時々とても物騒です」
「橋は穏やかに架けたいですが、不正は穏やかに流せません」
私は胸に手を置いた。
王都での十年は、私を縛った。けれど同時に、書類の読み方、席の空気、沈黙の意味を教えた。
奪われたものだけではない。
使えるものは、私の手に戻せばいい。
◇
裁定会は、王宮西棟の石造りの広間で開かれた。
大広間の華やかさはない。壁には歴代法務卿の肖像が並び、中央には長い机が置かれている。王妃、宰相、財務卿、法務官、王宮監査官。公爵家からは父と兄アルベルト。ボルマン商会の代表、そして数名の代理人。
ユリウス殿下もいた。
以前なら、私は殿下の後ろに立っていた場所だ。今日、私は反対側の席に座る。
父の目が、私を刺した。
その視線だけで、幼い頃の体が反応する。背筋を伸ばせ。余計なことを言うな。家の顔を潰すな。
私は机の下で、母の手紙を入れた小さな袋に触れた。
選んでいい。
法務官が開会を告げる。
最初に財務卿が、救恤品と納入品の欠損を読み上げた。北境毛布二百枚、ミレイユ薬草五箱、王宮灯油十二樽、乾燥豆の欠量。記録は淡々としているが、数字の一つ一つが誰かの夜を冷やした。
ボルマン商会の代表は、丸い顔に汗を浮かべながら弁明した。
「輸送時の事故、下請けの不手際、地方での保管不足が重なったものでございます。当商会に悪意は」
「黒い荷札は、なぜミレイユの旧粉挽き小屋から見つかったのですか」
王妃の声で、広間が静まる。
私は布に包んだ荷札を提出した。法務官が刻印を確認し、記録へ載せる。
商会代表の汗が増えた。
「それは、古いものが流れ着いた可能性も」
「水門の内側からも同じ印が見つかっています」
セドリック様が木片を出した。
「水路を閉め、倉の出入りを隠すために使われた木箱の一部です。雨で流れかけたところを、ミレイユ側が回収しました」
法務官のペンが走る。
父は黙っていた。
◇
やがて、話はミレイユの管理権へ移った。
父はそこで初めて口を開いた。
「ミレイユはローウェン家の関連領地であり、娘リディアの一存で扱えるものではありません。未婚の娘が地方で勝手に領主のように振る舞うことは、家の秩序を乱します」
懐かしい言葉だった。
秩序。
家。
娘。
その言葉で、私はずっと座らされてきた。
王妃が私を見た。
「リディアさん。答えなさい」
私は立ち上がった。
膝は震えていた。けれど声は出た。
「ミレイユは、母レティシアの婚姻契約により、母の直系子へ管理権が移る領地です。母の死後、私は未成年であったため、ローウェン公爵家の代理管理を受けていました。しかし成年後も管理権移譲の説明はなく、代理人による支出と商会指定が続いていました」
母の帳簿の写しを、法務官へ渡す。
「こちらに、母の時代の救恤倉記録、隣領協定、代理管理以前の収支があります。雨害後の調査で、救恤品の欠損、保管記録の不備、ボルマン商会への過剰支払いが確認されました」
父の顔色が変わる。
「リディア、家の内部資料を外へ出すとは」
「ミレイユの資料です」
私は父を見た。
「そして、ミレイユの人々に関わる資料です」
父の目に怒りが燃えた。
以前なら、その怒りだけで私は座ったかもしれない。
でも今、私の後ろには白楡館の広間がある。泥の聞き取り表、サラの字、フローラのインク染み、ガスパルの震える手、セドリック様の図面。
私一人の意地ではない。
「私は、正式な管理権の確認と、過去五年分の代理管理の監査を求めます」
広間の空気が動いた。
父が立ち上がりかける。
「娘が父を訴えるのか」
「領主代理の職務を問うています」
声が、思ったより冷静だった。
父の怒りが、少しだけ揺らぐ。
私が娘として泣くと思っていたのだろう。
今日は泣かない。
泣くなら、帰ってからでいい。
◇
裁定会は休憩に入った。
廊下へ出ると、ユリウス殿下が近づいてきた。
セドリック様が一歩動いたが、私は視線で止めた。
「リディア」
「殿下」
久しぶりに間近で見る殿下は、以前より痩せていた。目の下には薄い影がある。
「君が、これほどの資料を持っていたとは知らなかった」
「殿下がご覧になる機会はありませんでした」
「いや」
彼は苦い顔をした。
「見ようとしなかったのだと思う」
私は答えなかった。
許す言葉も、責める言葉も、今は裁定会の廊下には置きたくなかった。
「フローラは、王妃に申し出た。自分には務まらないと」
「そうですか」
「彼女は、変わった」
「変わろうとしています」
「君も」
殿下の言葉はそこで止まった。
私は礼をした。
「休憩が終わりますので」
背を向けると、呼び止められなかった。
それでよかった。
昔の私なら、殿下の沈黙の意味を探しただろう。
今は、席に戻る時間を守る方が大切だった。




