第三十話 帰れという手紙
父からの手紙は、封蝋からして怒っていた。
ローウェン公爵家の紋章が、赤い蝋に深く押し込まれている。力を入れすぎたのか、楯を囲む蔦の模様が潰れていた。届けた使者は白楡館の玄関で胸を張り、私がすぐ広間へ来るものと思っていたらしい。
私はその手紙を、昼食後まで開かなかった。
先に南畑の種籾貸付表へ署名し、橋の架け替え説明会の日取りを決め、温室の苗床を見た。父の手紙は、銀の盆の上で黙っていた。
以前の私なら、封を見た瞬間に手を伸ばしただろう。
父の不興を買っていないか。家の名に傷をつけていないか。自分の判断が許されるものか。
その問いで一日が埋まった。
今は、順番がある。
人、畑、橋。それから父。
「奥様、開けますか」
メイが湯を注ぎながら尋ねた。
「ええ」
「暖炉もつけましょうか」
「まだ燃やすとは言っていません」
「念のためです」
メイの真顔に、私は少し笑った。
封を切る。
中の文字は、父そのものだった。大きく、硬く、余白を許さない。
リディア。
即刻帰邸せよ。
お前の身勝手な滞在により、ローウェン家は王宮に対して説明を要する立場となっている。フローラを勝手に連れ込み、王太子妃候補としての教育を妨げたことも看過できない。
ミレイユの件は家の代理人が処理する。お前は公爵家の長女として、妹を支え、王家との関係修復に尽くせ。
従わぬ場合、お前の持参財および母方領地に関する権利を再検討する。
最後の行に、父の署名があった。
私は手紙を置いた。
メイが無言で暖炉の火掻き棒を手に取る。
「まだ燃やしません」
「では、いつでも燃やせるように持っております」
忠実な侍女の顔で、物騒なことを言う。
◇
フローラは手紙を読んで、しばらく黙っていた。
広間の隅には、彼女が写した種籾表が積まれている。インクの染みは少し増えたが、字は昨日より安定していた。
「私のせいですね」
「違います」
「でも、お父様は、私を王都へ戻せと」
「父は、自分の計画が崩れたことを怒っています。あなた個人を心配している文章ではありません」
言葉にすると、苦かった。
父が私を家に戻したいのは、私を案じているからではない。妹を王太子妃候補として整える手が足りず、王宮との関係を修復する駒が必要だからだ。
その事実を、私はもう知っている。
知っていても、痛みが消えるわけではない。
「お姉様は、帰らないのですか」
「帰りません」
「怖くありませんか」
「怖いです」
私は母の手紙を入れた小箱へ目を向けた。
「でも、帰ればもっと怖い。自分の選んだものを、また全部渡してしまうことになります」
フローラは膝の上で手を握った。
「私は、王都へ戻ります」
驚いて妹を見る。
フローラの顔は青白いが、逃げる顔ではなかった。
「王妃様に、自分の口で申し上げます。今の私に王太子妃候補は務まりません。務めたいと思えるまで、教育を受けるにしても、家のための身代わりにはなりません、と」
「父に止められます」
「だから、王妃様に先に言います」
妹は震える息を吐いた。
「お姉様の真似です。怖いまま、先に手順を決めます」
私は胸が詰まった。
守るべき妹だと思っていた。踏み台にされる妹だと思った。けれど彼女は今、自分の足で立とうとしている。
「わかりました。戻るなら、私の手紙を持って行ってください」
「お父様へですか」
「いいえ。王妃様へ」
父へは、別の返事を書く。
◇
父への返書は短くした。
ローウェン公爵閣下。
ミレイユの管理権および母方領地に関する書類を確認いたしました。現在、災害復旧、救恤倉の欠損、ボルマン商会との取引記録について調査中です。
私は当面ミレイユに留まり、領民の保護と帳簿整理を行います。
フローラの進退については、本人の意思を尊重してください。
以上。
リディア・ローウェン。
書き終えてから、あまりに冷たい文面に見えるかと一瞬迷った。
父に対して、娘らしい言葉を添えるべきだろうか。ご心配をおかけしました。お許しください。いずれお目にかかり説明いたします。
どれも、手に馴染んだ言葉だった。
でも書かなかった。
父が求めているのは説明ではなく服従だ。そこへ娘らしさを差し出せば、また首輪にされる。
封蝋を押すと、指先が少し震えた。
メイがそっと尋ねる。
「燃やす方は?」
父の手紙は、机の端に残っている。
私はそれを取り、暖炉の前へ行った。
火へ落とせば、簡単に灰になる。そうすれば胸がすくかもしれない。
けれど私は、手紙を燃やさなかった。
「これは証拠として残します」
メイは少し残念そうに火掻き棒を下ろした。
「賢明でございます」
「今、残念そうな顔をしましたね」
「気のせいでございます」
私は父の手紙を、母の帳簿の写しとは別の封筒に入れた。
帰れという命令も、私が従わなかった記録になる。
かつては怖いだけだった父の文字が、今は一枚の証拠になった。
◇
翌朝、フローラは王都へ発った。
馬車の窓から、妹は白い手袋の手を振った。指先には、昨日のインク染みがかすかに残っている。
「お姉様」
「はい」
「戻ってきても、いいですか」
「もちろん」
「逃げるためではなくても?」
「ここは、逃げる人だけの場所ではありません」
フローラは微笑んだ。
「では、行ってまいります」
馬車が動き出す。
私は見えなくなるまで、その後ろ姿を見送った。
父の手紙は、まだ机の中にある。王都ではまた別の嵐が起こるだろう。
けれど白楡館の朝は、変わらず忙しい。
私は広間へ戻り、橋の説明会の資料を手に取った。
帰れと言われた場所へは帰らない。
今いる場所で、するべき仕事がある。




