第二十九話 セドリック様の告白
セドリック様は、約束より少し早く来る人だった。
午後の鐘が鳴る前、白楡館の馬場に黒鹿毛の馬が入ってくる。私は広間の窓からそれを見て、無意識に立ち上がった。メイが帳簿から顔を上げ、にやりと笑う。
「奥様、橋の修理報告は机の上です」
「わかっています」
「では、窓の外に報告書はございませんね」
周囲でペンを動かしていた者たちが、そろって下を向いた。笑いをこらえているのがわかる。
「メイ」
「はい。お茶の支度をいたします」
すました顔で立ち去る侍女を、私は止められなかった。
以前の私なら、こういうからかいを許さなかったと思う。王宮では、誰かの視線一つで噂が生まれた。笑われる前に整え、隙を見せないことが身を守る術だった。
けれど白楡館の笑いは、刃物ではない。
まだ慣れない。慣れないけれど、嫌ではなかった。
◇
橋の修理報告は、思ったより厳しかった。
欄干の仮留めは済んだが、土台の一部が腐っている。このまま上だけ直しても、秋の雨で同じことが起きる。架け替えるなら費用は大きい。今のミレイユに余裕はない。
私は数字を見つめた。
「谷の市で増えた収益を回しても、冬の備蓄が薄くなります」
「アシュフォードから貸すことはできます」
「借りれば返さなければなりません」
「返せる形にすればいい」
セドリック様は、橋の図面に指を置いた。
「石橋にすれば維持費は下がる。ただし初期費用が高い。木橋を直せば安いが、五年以内にまた修繕がいる。なら、隣領共同の荷馬車道として石橋を架け、通行料の一部で返済する」
「ミレイユだけの橋ではなくすのですね」
「ええ。あなたの橋でも、私の橋でもなく、谷の橋にする」
その考え方は、心地よくもあり、怖くもあった。
独りで抱えなくてよい。けれど、独りで決めてもいけない。
「村の人たちに説明します」
「反対は出ます」
「出るでしょうね」
「それでも?」
「それでも、聞かずに決めるよりましです」
セドリック様は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、領主らしくなりました」
「褒め言葉ですか」
「はい」
短い返事に、胸が跳ねる。
困る。
とても困る。
橋の費用より、こちらの方が計算できない。
◇
夕方、彼と二人で修理中の橋を見に行った。
空は雨上がりの薄紫に沈み、谷底の水はまだ濁っている。仮留めされた欄干には新しい木の匂いがした。向こう岸では、アシュフォード領の大工とミレイユの若者が一緒に石を運んでいる。
「昔、この橋で父に叱られました」
セドリック様が不意に言った。
「落ちたのですか」
「落ちかけました。欄干の上を歩いて、向こう岸まで行けると言い張った」
「危険です」
「当時の私は、危険という言葉を挑発だと思っていました」
想像して、少し笑ってしまう。
彼は気まずそうに咳払いをした。
「父は、領主は橋の上で勇敢さを見せるなと言いました。橋を渡る全員が無事であることを考えろ、と」
「よいお父様だったのですね」
「厳しい人でした。よい人でもありました」
セドリック様は濁った流れを見下ろした。
「亡くなる前、父はアシュフォードを私に渡しました。私は二十歳でした。若すぎると言われた。実際、若すぎました。最初の冬、備蓄の配分を誤って、山村で病人を出した」
初めて聞く話だった。
彼の声は淡々としている。けれど、その淡さは傷の浅さではない。何度も触れて、形を覚えてしまった痛みの声だ。
「それから、私は数字を疑うようになりました。報告を疑い、自分の判断も疑う。疑いすぎて、人に冷たいと言われることもある」
「冷たいとは思いません」
即答していた。
セドリック様が私を見る。
私は少し恥ずかしくなり、橋の板目へ視線を落とした。
「少なくとも、私には。セドリック様は、人が沈まないように先に杭を打つ方です」
沈黙が落ちた。
水音だけが、二人の間を流れる。
「リディア嬢」
「はい」
「私は、あなたを尊敬しています」
その言葉は静かだった。
だからこそ、逃げられなかった。
「婚約を解消された公爵令嬢としてではなく、ミレイユで泥にまみれて名簿を作る人として。怖いと言いながら席を立たない人として。私は、あなたの隣に立ちたいと思っています」
風が吹き、濡れた髪が頬に触れた。
私は手袋の中で指を握った。
嬉しい。
その感情は、はっきりしていた。
けれど同じくらい、怖かった。
「セドリック様」
「返事を急がせるつもりはありません」
彼は私の言葉を遮らず、けれど先に逃げ道を置いた。
「あなたは、今ようやく自分で選ぶことを始めたばかりです。私がそこへ、新しい役目を押しつけることはしたくない」
「役目、ではないのですか」
「少なくとも、私はそうしたくない」
胸の奥が熱くなった。
王太子妃になることは、幼い頃から役目だった。父の期待、家の利益、王妃の教育、国の未来。そのどれも重かったし、私自身もそれを拒めなかった。
でも今、目の前の人は、私を役目にしないと言った。
「お返事は、少し待っていただけますか」
「もちろん」
「ただ……嫌だから待ってほしいのではありません」
言ってから、顔が熱くなった。
セドリック様は珍しく、はっきりと目を見開いた。それから、ゆっくりうなずいた。
「覚えておきます」
その声が少しだけ掠れていて、私はますます困った。
◇
帰り道、橋の上で足を止めた。
向こう岸とこちら側をつなぐもの。
誰か一人のものではなく、渡る人たちのためにあるもの。
私のこれからも、そうであればいいと思った。
誰かに渡されるのではなく、自分で選んで架ける。
セドリック様は少し先で振り返り、私を待っていた。
待っているだけで、急がせない。
その距離が、今の私には何より優しかった。




