第二十八話 母の手紙
母の手紙が見つかったのは、温室の床下からだった。
雨で緩んだ土台を直すため、大工たちが古い板を外していた。白楡館の温室は、母が嫁ぐ前に好んで使っていた場所らしい。今は薬草の苗と、雨漏りを受ける桶が並んでいるだけだが、南側の窓辺には昔の名残で、小さな書き物机が残っていた。
その脚の下に、油紙で包まれた箱があった。
「奥様、これを」
ガスパルが両手で差し出した箱は、木目が黒ずみ、金具も錆びていた。蓋には母方の家の紋章、三枚の楡の葉が彫られている。
鍵は壊れていなかった。
けれど開け方は、私が知っていた。
子どもの頃、母の宝石箱に似た鍵を見たことがある。鍵穴へ針を入れるのではなく、紋章の中央を押し、横の葉を滑らせる。母はそれを、悪戯を教えるように笑って見せてくれた。
私は指を置いた。
金具が小さく鳴り、蓋が開く。
中には、古い帳簿の写しと、数通の手紙が入っていた。
宛名は、私だった。
リディアへ。
母の字は、隣領協定の署名と同じく、やわらかく伸びていた。
私はしばらく、その文字を読むことができなかった。
母が亡くなったのは、私が十二歳のときだ。公爵家では長く病んだ末のことだと説明された。忙しい父、遠慮する兄、幼いフローラ。私は泣きたい気持ちを押し込め、葬儀の席で来客の名を覚えた。
母の死は、私が泣くより早く家の仕事になった。
その母が、私に手紙を残していた。
◇
手紙は、温室の机で読んだ。
フローラは広間で写字をしている。セドリック様は午後に来る予定だった。私は一人で読みたかった。
油紙をほどくと、古いラベンダーの匂いがした。
リディアへ。
あなたがこの手紙を読む頃、私はそばにいないかもしれません。そばにいない母が、娘の未来へ手を伸ばすのは卑怯なことかもしれない。それでも書きます。
あなたは、よく見て、よく覚える子です。大人たちはそれを便利だと思うでしょう。賢い子、頼れる子、我慢のできる子。そう呼ばれるたびに、あなたは少しずつ自分の泣き方を忘れるかもしれません。
忘れないで。
泣けることは、弱さではありません。嫌だと思うことも、怠けではありません。役に立つことと、愛されることは同じではありません。
私はそこで読むのを止めた。
窓の外で、修理の槌音がする。一つ、二つ。胸の中の固い場所を叩くような音だった。
役に立つことと、愛されることは同じではない。
その一文だけで、十年分の息がほどけていく気がした。
私は続きを読んだ。
もしあなたがローウェン家で苦しくなったら、ミレイユへ行きなさい。あそこは古い領地で、豊かではありません。雨漏りもするし、帳簿は面倒です。けれど、あなたの名を仕事のためだけに使う人ばかりではないはずです。
白楡館の温室の床下に、領地の写しを残します。誰かがあなたから選ぶ権利を奪おうとしたとき、これを使いなさい。
選んでいいのです。
娘だから、姉だから、婚約者だから、家のためだから。その言葉のすべてを聞いたあとでも、最後にあなたが何を選ぶかは、あなたのものです。
私は、あなたが生きる場所で笑えることを願っています。
母より。
読み終えた紙の上に、涙が一滴落ちた。
慌てて袖で押さえたが、もう一滴落ちた。今度は拭かなかった。
「お母様」
声に出すと、ずっと胸の奥にいた十二歳の私が、ようやく顔を上げた。
葬儀の席で泣けなかった私。王宮の課題を抱えて眠った私。婚約解消の日にも、背筋を伸ばすことを先に考えた私。
そのすべてを、母は知っていたのかもしれない。
◇
午後、セドリック様が来た。
私は手紙と一緒に入っていた帳簿の写しを広げる。ミレイユの収益、隣領との水路協定、母が独自に設けた救恤倉の記録。そして、母の死後に途切れた支出の欄。
「この時期から、ボルマン商会が入り込んでいます」
セドリック様は写しを見て、眉を寄せた。
「あなたの父君の代理人が、商会を指定していますね」
「母の書類がなければ、昔からの慣例だと言われて終わるところでした」
「これで、ミレイユの管理権を争えます」
争う。
その言葉に、手が少し冷えた。
父と争う。王都で、家名を相手に、自分の名を出す。
怖くないと言えば嘘になる。
セドリック様は、私の手元から顔を上げた。
「怖いですか」
「はい」
正直に答えると、彼はうなずいた。
「なら、怖いまま準備しましょう。怖くなくなるまで待っていたら、相手が先に動く」
「セドリック様は、いつもそうなのですか」
「たいてい怖いままです」
意外で、私は瞬きをした。
彼は少しだけ視線を外した。
「怖くない顔をしていると、家臣が落ち着くので」
その言葉に、私は思わず笑った。
強い人は、怖くない人だと思っていた。
違う。
怖いものを見たまま、手順を選ぶ人なのだ。
私は母の手紙を胸に抱いた。
「では、準備します」
「ええ」
「怖いまま」
「怖いまま」
セドリック様の口元が、かすかに緩んだ。
その小さな笑みに、私は救われた。
◇
夜、フローラにも手紙の一部を読ませた。
妹は「役に立つことと、愛されることは同じではない」の行で泣いた。
「お母様は、私にも言ってくださっているみたい」
「ええ」
「お姉様、私、王都へ戻ったら、王妃様に申し上げます。私には、今すぐ王太子妃候補は務まりません、と」
「父が怒ります」
「怒ると思います」
フローラは涙を拭いた。
「でも、怖いまま準備します」
私は妹の手を握った。
母の手紙は、私だけに宛てられていた。けれどその言葉は、二人の娘を同じように抱いた。
白楡館の夜は静かだった。
窓の外で、修理を終えた温室のガラスが月を映している。
母が残した古い光が、今になって、私たちの足元を照らしていた。




