表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/75

第二十八話 母の手紙

 母の手紙が見つかったのは、温室の床下からだった。


 雨で緩んだ土台を直すため、大工たちが古い板を外していた。白楡館しらにれかんの温室は、母が嫁ぐ前に好んで使っていた場所らしい。今は薬草の苗と、雨漏りを受ける桶が並んでいるだけだが、南側の窓辺には昔の名残で、小さな書き物机が残っていた。


 その脚の下に、油紙で包まれた箱があった。


「奥様、これを」


 ガスパルが両手で差し出した箱は、木目が黒ずみ、金具も錆びていた。蓋には母方の家の紋章、三枚の楡の葉が彫られている。


 鍵は壊れていなかった。


 けれど開け方は、私が知っていた。


 子どもの頃、母の宝石箱に似た鍵を見たことがある。鍵穴へ針を入れるのではなく、紋章の中央を押し、横の葉を滑らせる。母はそれを、悪戯を教えるように笑って見せてくれた。


 私は指を置いた。


 金具が小さく鳴り、蓋が開く。


 中には、古い帳簿の写しと、数通の手紙が入っていた。


 宛名は、私だった。


 リディアへ。


 母の字は、隣領協定の署名と同じく、やわらかく伸びていた。


 私はしばらく、その文字を読むことができなかった。


 母が亡くなったのは、私が十二歳のときだ。公爵家では長く病んだ末のことだと説明された。忙しい父、遠慮する兄、幼いフローラ。私は泣きたい気持ちを押し込め、葬儀の席で来客の名を覚えた。


 母の死は、私が泣くより早く家の仕事になった。


 その母が、私に手紙を残していた。


    ◇


 手紙は、温室の机で読んだ。


 フローラは広間で写字をしている。セドリック様は午後に来る予定だった。私は一人で読みたかった。


 油紙をほどくと、古いラベンダーの匂いがした。


 リディアへ。


 あなたがこの手紙を読む頃、私はそばにいないかもしれません。そばにいない母が、娘の未来へ手を伸ばすのは卑怯なことかもしれない。それでも書きます。


 あなたは、よく見て、よく覚える子です。大人たちはそれを便利だと思うでしょう。賢い子、頼れる子、我慢のできる子。そう呼ばれるたびに、あなたは少しずつ自分の泣き方を忘れるかもしれません。


 忘れないで。


 泣けることは、弱さではありません。嫌だと思うことも、怠けではありません。役に立つことと、愛されることは同じではありません。


 私はそこで読むのを止めた。


 窓の外で、修理の槌音がする。一つ、二つ。胸の中の固い場所を叩くような音だった。


 役に立つことと、愛されることは同じではない。


 その一文だけで、十年分の息がほどけていく気がした。


 私は続きを読んだ。


 もしあなたがローウェン家で苦しくなったら、ミレイユへ行きなさい。あそこは古い領地で、豊かではありません。雨漏りもするし、帳簿は面倒です。けれど、あなたの名を仕事のためだけに使う人ばかりではないはずです。


 白楡館の温室の床下に、領地の写しを残します。誰かがあなたから選ぶ権利を奪おうとしたとき、これを使いなさい。


 選んでいいのです。


 娘だから、姉だから、婚約者だから、家のためだから。その言葉のすべてを聞いたあとでも、最後にあなたが何を選ぶかは、あなたのものです。


 私は、あなたが生きる場所で笑えることを願っています。


 母より。


 読み終えた紙の上に、涙が一滴落ちた。


 慌てて袖で押さえたが、もう一滴落ちた。今度は拭かなかった。


「お母様」


 声に出すと、ずっと胸の奥にいた十二歳の私が、ようやく顔を上げた。


 葬儀の席で泣けなかった私。王宮の課題を抱えて眠った私。婚約解消の日にも、背筋を伸ばすことを先に考えた私。


 そのすべてを、母は知っていたのかもしれない。


    ◇


 午後、セドリック様が来た。


 私は手紙と一緒に入っていた帳簿の写しを広げる。ミレイユの収益、隣領との水路協定、母が独自に設けた救恤倉の記録。そして、母の死後に途切れた支出の欄。


「この時期から、ボルマン商会が入り込んでいます」


 セドリック様は写しを見て、眉を寄せた。


「あなたの父君の代理人が、商会を指定していますね」


「母の書類がなければ、昔からの慣例だと言われて終わるところでした」


「これで、ミレイユの管理権を争えます」


 争う。


 その言葉に、手が少し冷えた。


 父と争う。王都で、家名を相手に、自分の名を出す。


 怖くないと言えば嘘になる。


 セドリック様は、私の手元から顔を上げた。


「怖いですか」


「はい」


 正直に答えると、彼はうなずいた。


「なら、怖いまま準備しましょう。怖くなくなるまで待っていたら、相手が先に動く」


「セドリック様は、いつもそうなのですか」


「たいてい怖いままです」


 意外で、私は瞬きをした。


 彼は少しだけ視線を外した。


「怖くない顔をしていると、家臣が落ち着くので」


 その言葉に、私は思わず笑った。


 強い人は、怖くない人だと思っていた。


 違う。


 怖いものを見たまま、手順を選ぶ人なのだ。


 私は母の手紙を胸に抱いた。


「では、準備します」


「ええ」


「怖いまま」


「怖いまま」


 セドリック様の口元が、かすかに緩んだ。


 その小さな笑みに、私は救われた。


    ◇


 夜、フローラにも手紙の一部を読ませた。


 妹は「役に立つことと、愛されることは同じではない」の行で泣いた。


「お母様は、私にも言ってくださっているみたい」


「ええ」


「お姉様、私、王都へ戻ったら、王妃様に申し上げます。私には、今すぐ王太子妃候補は務まりません、と」


「父が怒ります」


「怒ると思います」


 フローラは涙を拭いた。


「でも、怖いまま準備します」


 私は妹の手を握った。


 母の手紙は、私だけに宛てられていた。けれどその言葉は、二人の娘を同じように抱いた。


 白楡館の夜は静かだった。


 窓の外で、修理を終えた温室のガラスが月を映している。


 母が残した古い光が、今になって、私たちの足元を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ