表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/86

第二十七話 フローラの逃げ場所

 フローラが白楡館へ来たのは、雨の被害が一段落した三日後だった。


 王都からの馬車は、谷道の手前で車輪を泥に取られた。御者が困り果てているところへ、薪を運んでいたトマたちが通りかかり、総出で押したという。


 だから玄関前に現れた妹は、王宮で見るような薄絹のドレスではなく、裾に泥の跳ねた外套を着ていた。頬は青白く、目の下には影がある。それでも彼女は、私を見つけると習慣のように微笑もうとした。


「お姉様」


 その笑みは、すぐに崩れた。


「ごめんなさい。私、来てしまいました」


 私は玄関の段を下りた。


「来てはいけない場所ではありません」


「でも、お父様には、王妃様への返事が終わるまで屋敷を出るなと言われていて……」


「では、勝手に来たのですね」


 フローラは小さくうなずいた。


 昔から、妹は勝手なことが苦手だった。使用人に菓子を配るにも、父の許しを気にした。庭の薔薇を一輪切るにも、私の顔を見た。美しく、愛らしく、けれど自分の足で踏み出す前に誰かの承認を探す子だった。


 その子が、泥道を越えてここまで来た。


「中へ。温かいものを出します」


「叱らないのですか」


「叱るには、まず椅子に座らせてからです」


 フローラは泣きそうな顔で笑った。


    ◇


 小客間で、エリーズが蜂蜜入りの湯を出した。


 フローラは両手で杯を包み、しばらく何も言わなかった。窓の外では、サラが聞き取り表を抱えて走っている。廊下の向こうからは、泥を落とす桶の音と、マルタの叱る声が聞こえた。


「ここは、忙しいのですね」


「ええ」


「王宮も忙しいです。でも、音が違う」


 私は向かいの椅子に座った。


「どんな音ですか」


「扉が閉まる音ばかりです」


 妹の指が杯の縁をなぞる。


「お父様は、私に笑っていろとおっしゃいます。殿下のお心を明るくするのが私の役目だと。王妃様は、毎朝書類をくださいます。読んでも、わからない言葉ばかりで。殿下はお優しいけれど、私が困ると、ご自分も困った顔をなさるだけです」


 責める声ではなかった。


 自分の立っている床が沈んでいくのを、どう伝えればいいかわからない声だった。


「お姉様は、どうしてできたのですか」


「できていたわけではありません」


「でも、みんな、お姉様ならと言います」


「私も、そう言われるたびに、少しずつできるふりを覚えました」


 フローラは顔を上げた。


 私は机の上に置いていた聞き取り表を一枚、彼女の前へ滑らせた。


「読んでみますか」


「私が?」


「はい。南畑の種籾の数です。王宮の文書より、こちらの方が先に意味を持ちます」


 フローラは戸惑いながら紙を取った。


「……家族数、五。残った種籾、袋半分。必要数、三袋。貸付希望、あり。返済、収穫後」


「何がわかりますか」


「三袋、必要です」


「それだけではありません」


 私は数字の横に書かれた小さな文字を指した。


「この家には幼い子が二人います。水をかぶった畑だけでなく、家の床も濡れています。種籾を渡しても、寝る場所が乾かなければ病が出るかもしれない」


 フローラは紙を見つめた。


「数字の横に、人がいるのですね」


「ええ」


 その言葉を、私は自分に返すように聞いた。


    ◇


 午後、フローラは広間で手伝うと言い出した。


 最初は誰もが遠慮した。公爵家の令嬢、それも次の王太子妃候補を、泥と汗の残る広間に座らせるわけにはいかないという顔だった。


 けれどフローラは、小さな声で言った。


「綺麗なままでは、何も覚えられません」


 その一言で、マルタが椅子を引いた。


「なら、お座りなさい。汚れた紙を綺麗な紙へ写す仕事があります。字を間違えたら、畑が泣くよ」


「はい」


 フローラは背筋を伸ばし、ペンを取った。


 美しい妹の指先に、すぐにインクがついた。彼女はそれを見て一瞬固まったが、拭かずに次の行を書き始めた。


 私は少し離れた場所から、その姿を見た。


 父が見れば眉をひそめるだろう。王宮の侍女なら、替えの手袋を持って走るかもしれない。


 でもフローラの顔は、王宮で見たどの日よりも落ち着いていた。


「奥様」


 サラが私の袖を引いた。


「フローラ様、間違えた字を聞いてくれます。怒らないです」


「そう」


「王都の人は、みんな怒るのかと思ってました」


「いろいろな人がいます」


 私はそう答えながら、胸の奥の硬いものが少し緩むのを感じた。


 妹は、私の場所を奪った人ではない。


 妹もまた、誰かに場所を決められた人だった。


    ◇


 夜、フローラは客室の前で立ち止まった。


「お姉様、私は、王太子妃になりたくないと言ったら、許されるのでしょうか」


 廊下のランプが、妹の横顔を淡く照らしている。


「誰に許されたいのですか」


「……お父様に。王妃様に。殿下に。お姉様に」


「私の許しはいりません」


 フローラの目が揺れた。


「あなたの人生です。私が許すものではない」


 言ってから、私はその言葉が自分にも向いていることに気づいた。


 私の人生も、誰かに許されて始まるものではない。


 フローラは涙をこぼした。静かな涙だった。


「では、私はまず、自分に聞いてみます」


「それがいいと思います」


 妹の部屋の扉が閉まる。


 その音は、王宮の扉のように冷たくはなかった。


 逃げ込む場所ではなく、息を整える場所。


 白楡館が、誰かにとってそんな場所になったことを、私は初めて誇らしく思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ