第二十七話 フローラの逃げ場所
フローラが白楡館へ来たのは、雨の被害が一段落した三日後だった。
王都からの馬車は、谷道の手前で車輪を泥に取られた。御者が困り果てているところへ、薪を運んでいたトマたちが通りかかり、総出で押したという。
だから玄関前に現れた妹は、王宮で見るような薄絹のドレスではなく、裾に泥の跳ねた外套を着ていた。頬は青白く、目の下には影がある。それでも彼女は、私を見つけると習慣のように微笑もうとした。
「お姉様」
その笑みは、すぐに崩れた。
「ごめんなさい。私、来てしまいました」
私は玄関の段を下りた。
「来てはいけない場所ではありません」
「でも、お父様には、王妃様への返事が終わるまで屋敷を出るなと言われていて……」
「では、勝手に来たのですね」
フローラは小さくうなずいた。
昔から、妹は勝手なことが苦手だった。使用人に菓子を配るにも、父の許しを気にした。庭の薔薇を一輪切るにも、私の顔を見た。美しく、愛らしく、けれど自分の足で踏み出す前に誰かの承認を探す子だった。
その子が、泥道を越えてここまで来た。
「中へ。温かいものを出します」
「叱らないのですか」
「叱るには、まず椅子に座らせてからです」
フローラは泣きそうな顔で笑った。
◇
小客間で、エリーズが蜂蜜入りの湯を出した。
フローラは両手で杯を包み、しばらく何も言わなかった。窓の外では、サラが聞き取り表を抱えて走っている。廊下の向こうからは、泥を落とす桶の音と、マルタの叱る声が聞こえた。
「ここは、忙しいのですね」
「ええ」
「王宮も忙しいです。でも、音が違う」
私は向かいの椅子に座った。
「どんな音ですか」
「扉が閉まる音ばかりです」
妹の指が杯の縁をなぞる。
「お父様は、私に笑っていろとおっしゃいます。殿下のお心を明るくするのが私の役目だと。王妃様は、毎朝書類をくださいます。読んでも、わからない言葉ばかりで。殿下はお優しいけれど、私が困ると、ご自分も困った顔をなさるだけです」
責める声ではなかった。
自分の立っている床が沈んでいくのを、どう伝えればいいかわからない声だった。
「お姉様は、どうしてできたのですか」
「できていたわけではありません」
「でも、みんな、お姉様ならと言います」
「私も、そう言われるたびに、少しずつできるふりを覚えました」
フローラは顔を上げた。
私は机の上に置いていた聞き取り表を一枚、彼女の前へ滑らせた。
「読んでみますか」
「私が?」
「はい。南畑の種籾の数です。王宮の文書より、こちらの方が先に意味を持ちます」
フローラは戸惑いながら紙を取った。
「……家族数、五。残った種籾、袋半分。必要数、三袋。貸付希望、あり。返済、収穫後」
「何がわかりますか」
「三袋、必要です」
「それだけではありません」
私は数字の横に書かれた小さな文字を指した。
「この家には幼い子が二人います。水をかぶった畑だけでなく、家の床も濡れています。種籾を渡しても、寝る場所が乾かなければ病が出るかもしれない」
フローラは紙を見つめた。
「数字の横に、人がいるのですね」
「ええ」
その言葉を、私は自分に返すように聞いた。
◇
午後、フローラは広間で手伝うと言い出した。
最初は誰もが遠慮した。公爵家の令嬢、それも次の王太子妃候補を、泥と汗の残る広間に座らせるわけにはいかないという顔だった。
けれどフローラは、小さな声で言った。
「綺麗なままでは、何も覚えられません」
その一言で、マルタが椅子を引いた。
「なら、お座りなさい。汚れた紙を綺麗な紙へ写す仕事があります。字を間違えたら、畑が泣くよ」
「はい」
フローラは背筋を伸ばし、ペンを取った。
美しい妹の指先に、すぐにインクがついた。彼女はそれを見て一瞬固まったが、拭かずに次の行を書き始めた。
私は少し離れた場所から、その姿を見た。
父が見れば眉をひそめるだろう。王宮の侍女なら、替えの手袋を持って走るかもしれない。
でもフローラの顔は、王宮で見たどの日よりも落ち着いていた。
「奥様」
サラが私の袖を引いた。
「フローラ様、間違えた字を聞いてくれます。怒らないです」
「そう」
「王都の人は、みんな怒るのかと思ってました」
「いろいろな人がいます」
私はそう答えながら、胸の奥の硬いものが少し緩むのを感じた。
妹は、私の場所を奪った人ではない。
妹もまた、誰かに場所を決められた人だった。
◇
夜、フローラは客室の前で立ち止まった。
「お姉様、私は、王太子妃になりたくないと言ったら、許されるのでしょうか」
廊下のランプが、妹の横顔を淡く照らしている。
「誰に許されたいのですか」
「……お父様に。王妃様に。殿下に。お姉様に」
「私の許しはいりません」
フローラの目が揺れた。
「あなたの人生です。私が許すものではない」
言ってから、私はその言葉が自分にも向いていることに気づいた。
私の人生も、誰かに許されて始まるものではない。
フローラは涙をこぼした。静かな涙だった。
「では、私はまず、自分に聞いてみます」
「それがいいと思います」
妹の部屋の扉が閉まる。
その音は、王宮の扉のように冷たくはなかった。
逃げ込む場所ではなく、息を整える場所。
白楡館が、誰かにとってそんな場所になったことを、私は初めて誇らしく思った。




