第二十六話 王宮の灯が消える
王宮では、同じ雨が違う音で聞こえていた。
高い窓を叩く水音は、磨かれた床に届く前に消える。廊下には厚い絨毯が敷かれ、侍女たちは濡れた裾を見せないように歩いた。外の泥も、谷の増水も、王宮の白い壁には映らない。
けれどその日、灯だけは隠せなかった。
夕刻、東翼の燭台が一斉に消えた。
春の叙勲式を三日後に控え、王宮は夜を使って準備を進めていた。大広間の花飾り、来賓室の寝具、厨房の保存食。どれも遅れが許されない。そこへ、東翼と南回廊の灯油が使い物にならないと報告が入った。
「薄められております」
侍従長が、銀盆に載せた小瓶を王妃エレオノーラの前へ置いた。
王妃は瓶を傾けた。琥珀色の油の中に、水の筋がうっすらと揺れている。
「納入元は」
「ボルマン商会でございます」
その名を聞いた瞬間、王太子ユリウスは顔を上げた。
執務室には王妃、宰相、財務卿、王太子、そして数人の書記官がいた。以前なら、こういう場でリディアが書記官の後ろに控え、必要な資料を静かに差し出していた。
今、その場所は空いている。
空いていることに、ユリウスは毎日気づかされる。
「灯油だけではございません」
財務卿が別の帳簿を開いた。
「北境慰問品の毛布、ミレイユ救恤薬草、王宮厨房の乾燥豆。いずれもボルマン商会を通した分に欠損が見られます。ただし帳簿上は納品済みです」
「誰が検収印を押したのです」
王妃の声は、低かった。
書記官が青ざめながら答える。
「王太子宮の補助印が、複数回使われております」
沈黙が落ちた。
ユリウスの耳に、雨音だけが残る。
「私は、そんなものを承認していない」
言ってから、自分の声が弱いことに気づいた。
宰相は目を伏せたまま、淡々と告げる。
「殿下の直接署名ではありません。けれど殿下の宮の名で発行された補助印です。管理責任は問われます」
「管理は、下の者が……」
そこまで言って、ユリウスは口を閉じた。
リディアなら、下の者の名を覚えていた。誰に何を任せ、どこで確認し、どの箱に控えを残すか。彼女はそれを、息をするようにやっていた。
息が詰まる、と彼は言った。
今は、息をするための仕組みがなかったのだとわかる。
王妃が立ち上がった。
「東翼の灯は、今夜から王妃宮の備蓄を使いなさい。叙勲式の規模を縮小します。見栄のために城を燃やすことはありません」
「母上、規模を縮小すれば、諸侯に不安を与えます」
「薄めた油で灯した燭台が倒れれば、諸侯は不安どころか逃げ出します」
王妃はユリウスを見た。
その目は冷たくはなかった。もっと厳しい。逃げ場を与えない目だった。
「ユリウス。あなたは人の心を欲しがりました。では、人の暮らしを支える仕事から逃げてはいけません」
「私は逃げたつもりはありません」
「では、見えていなかったのです」
その言葉は、剣より深く刺さった。
◇
ミリアは王太子宮の小さな客間で、震える手を膝の上に置いていた。
侍女たちの視線が変わったことは、すぐにわかる。以前は、彼女が笑えば場が和んだ。砂糖菓子を差し出せば、ユリウスの表情もやわらいだ。リディアが張りつめた話をした後で、ミリアが季節の花の話をすれば、殿下はほっと息をついた。
けれど今、誰も花の話を求めていない。
扉が開き、王妃が入ってきた。
ミリアは慌てて立ち上がる。
「王妃様、私は何も……」
「あなたが薄めた油を納めたとは思っていません」
王妃は椅子に座らず、窓際に立った。
「けれど、あなたは王太子のそばに立つことを望んだ。そばに立つ者は、灯が消えたときに何をするか問われます」
「私は、殿下をお慰めすることしか……」
「慰めは、責任のあとに置きなさい」
ミリアは唇を噛んだ。
責められるよりも、その言葉の方が怖かった。
慰めるだけなら、誰かの隣にいられると思っていた。笑って、寄り添って、立派な人たちの固い空気をやわらげる。そうすれば、自分にも居場所があると信じていた。
でも居場所には、床がいる。
その床を支える名前を、彼女は知らなかった。
「リディア様は、こういうとき、どうしていたのでしょう」
思わず漏れた声に、王妃の眉がかすかに動いた。
「まず、全員の名を確認したでしょう。次に、失われた物と残っている物を分けたでしょう。そして、泣くのは最後にしたでしょうね」
「最後に、泣かれたのですか」
「見たことはありません」
王妃は窓の外を見た。
「だから、私はあの子を使い過ぎました」
その声は、ミリアが初めて聞く王妃の疲れた声だった。
◇
夜半、ユリウスは消えた燭台の前に立っていた。
芯は黒く湿り、銀の皿に水混じりの油が残っている。美しい器に入れれば、汚れたものも一瞬は上等に見える。
婚約解消の日、彼は同じことをしたのかもしれない。
自分の未熟さを、恋という美しい言葉に入れた。
そしてリディアの十年を、息苦しさと呼んだ。
「殿下」
侍従が近づいてくる。
「王妃様より、明朝までに王太子宮の印章管理記録を提出せよとのことです」
「リディアが保管していた控えは」
「婚約解消の際、ローウェン家へ返却済みです。ただ、リディア様が個人的に写しを作っておられた可能性はございます」
また、彼女の名だ。
ユリウスは目を閉じた。
今さら戻れとは言えない。言ってはいけない。
それでも、彼の周りの灯は、彼女がいなくなってから一つずつ消えていった。
王宮の夜は暗い。
その暗さを、自分の責任として見ることから、彼はもう逃げられなかった。




